第三十二章 「同じ朝なのに」
第三十二章
「同じ朝なのに」
朝六時。
レモナは、 スマホの振動で目を覚ました。
薄暗い部屋。
カーテンの隙間から、 ぼんやりした朝の光が入っている。
寝ぼけたまま画面を見る。
湊からだった。
『今終わった』
その下。
『声聞きたい』
送信時刻は、 深夜二時四十七分。
レモナは、 しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
嬉しい。
ちゃんと、 会いたいと思ってくれている。
でも。
その時間まで働いていた現実が、 急に遠く感じる。
自分が眠っている間も、 湊の世界は動き続けている。
レモナは、 ゆっくり起き上がる。
静かな部屋。
遠くで、 フェリーの汽笛が聞こえる。
島の朝だ。
変わらない朝。
でも。
もう同じ朝を見ている気がしなかった。
レモナは、 短く返信を打つ。
『起きた』
少し迷う。
『電話する?』
送信。
数秒後。
すぐ既読がついた。
レモナは少し驚く。
まだ起きていたらしい。
その直後、 着信画面が光る。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
『……もしもし』
掠れた声。
完全に疲れている。
レモナは、 少し笑う。
「寝てないでしょ」
『寝るタイミング逃した』
後ろで、 小さく換気音が聞こえる。
東京の夜明け前の音。
レモナは、 窓を開ける。
潮風が入ってくる。
島の朝の匂い。
同じ通話なのに、 吸っている空気が違う。
少し沈黙。
その沈黙が、 前より長くなった気がした。
でも不思議と、 嫌ではない。
湊が、 ぽつりと言う。
『今、 そっちどんな感じ』
レモナは、 港を見る。
朝焼け。
ゆっくり動く船。
猫。
釣り人。
「いつもの朝」
『……そっか』
その声が、 少し羨ましそうに聞こえた。
湊は、 窓のない編集室にいる。
時間感覚も、 季節も曖昧になる場所。
レモナは、 ふと聞く。
「東京、そんな忙しい?」
『最近ちょっと』
「そっか」
少し波の音が流れる。
「……楽しい?」
今度は少し長く間があいた。
湊は、 正直に答える。
『……楽しい時もある』
レモナは、 胸の奥が少しだけ痛む。
でも。
その感情に、 もう名前をつけない。
寂しい。
不安。
置いていかれる感じ。
全部、 たぶん本物だ。
でも同時に。
湊が、 ちゃんと夢に近づいていることも、 本物だった。
レモナは、 窓枠に寄りかかり、波の向こうを見る。 東京の話になるたび、ふと思い出す顔があった。 「真白さん、 元気?」
電話の向こうで、 少し空気が止まる。
『……なんで急に』
「なんとなく」
レモナは、 小さく笑う。
本当は、 なんとなくじゃない。
真白は、 湊の東京を知っている。
自分の知らない顔を知っている。
そのことを考えると、 少しだけ苦しくなる。
湊は、 静かに言う。
『普通に仕事しとるよ』
「そっか」
また沈黙。
波の音だけが聞こえる。
レモナは、 自分でも意外なくらい静かだった。
怒っているわけじゃない。
疑っているわけでもない。
でも。 見えない時間が増えていくのが怖かった。
東京で過ごす湊の毎日を、 自分はもうほとんど知らない。
湊が、 急に言う。
『レモナ』
「ん?」
『……帰りたい』
レモナは、目を閉じる。
その言葉だけで、また待ててしまう。
そういうところが、ずるい。
でも。
好きな人の“帰りたい”は、 待つ理由になってしまう。
レモナは、 小さく息を吐く。
「じゃあ帰ってきたら?」
冗談みたいに言う。
でも。
本当は、 半分本気だった。
電話の向こうで、 湊が黙る。
その沈黙が、 現実だった。
簡単には帰れない。
東京には、 夢がある。
仕事がある。
必要としてくれる場所がある。
それを、 レモナもわかっている。
だから、 責められない。
湊が、 小さく言う。
『……ごめん』
レモナは、 少し笑った。
「なんで謝るの」
『わからん』
その答えが、 妙に湊らしくて、 少しだけ泣きそうになる。
朝日が、 港へ差し始める。
新しい一日。
島の時間は、 今日もゆっくり流れていく。
でも。
東京では、もう編集室の蛍光灯が消えることなく、次の一日が始まっている。
同じ朝なのに。
二人は少しずつ、 違う速度で生き始めていた。 それでもまだ、
二人とも同じ場所を帰る場所だと思っていた。 第三十三章へ続く。




