第三十章 「同じ夜まで働いていた人」
第三十章
「同じ夜まで働いていた人」
東京の夜は、 終わる気配がなかった。
窓の外には、 ビルの灯り。
走り続ける車。
終電を逃した人たち。
深夜二時を過ぎても、 編集室だけはまだ明るい。
湊は、 パソコン画面から目を離し、 小さく息を吐いた。
肩が重い。
目が熱い。
でも、 締切は待ってくれない。
島の映像企画は、 予想以上に動き始めていた。
追加編集。
配信用短尺。
企業タイアップ。
観光PR案。
“瀬戸内の春” は、 東京で商品になろうとしている。
「朝倉さん」
後ろから、 静かな声がした。
振り返らなくてもわかる。
「……真白」
高城真白が、 資料ファイルを抱えて立っていた。
黒髪を後ろで軽くまとめ、 白シャツの袖を少し折っている。
相変わらず、 疲れてるのに姿勢が崩れない。
真白は、 机へファイルを置く。
「修正版、 先方から戻りました」
「ありがとう」
湊が受け取る。
真白は、 モニターに映る映像を見る。
港。
フェリー。
『nagi』。
夕方の海。
少し沈黙。
それから、 小さく言った。
「このカット、 好きです」
画面には、 レモナが窓を開ける瞬間が映っていた。
風で髪が揺れる。
ほんの数秒の映像。
でも湊は、 そこを何度も切れなかった。
真白は、 少しだけ笑う。
「朝倉さん、 ここだけ編集甘いです」
「……うるさい」
「感情入ってるの見え見えです」
図星だった。
湊は、 視線を逸らす。
真白だけは、 そういう部分を昔から見抜く。
東京で、 同じ夜を何度も越えてきたから。
終電後の編集室。
仮眠室。
コンビニの冷えたおにぎり。
朝五時の書き出し。
モニターの光に照らされた、 疲れた顔。
真白は、 いつも静かに隣にいた。
別に特別仲がいいわけじゃない。
でも。
一番長く、 “仕事してる自分” を見てきた人だった。
真白が、 空いた椅子へ座る。
「帰ってました?」
「……何が」
「島」
湊は、 少し黙る。
真白は、 質問の仕方が独特だ。
“行った”じゃなく、 “帰った”。
湊は、小さく頷く。
「ちょっとだけ」
真白は、 「ああ……」 と小さく息を漏らした。
「呼吸できました?」
その言葉に、 湊は苦笑する。
「何それ」
「朝倉さん、 東京いると息浅いので…」
否定できなかった。
東京にいると、 常に何かが背中を押してくる。
数字、締切、 評価。
止まれば、 そのまま置いていかれそうだった。
でも島では。
時間が少し遅い。
波の音が聞こえる。
夜がちゃんと静かだ。
真白は、 モニターを見ながら言う。
「レモナさん、 元気でした?」
湊は少し驚く。
「覚えとるんや」
「忘れるタイプに見えます?」
見えない。
真白は、 一度しか『nagi』へ行っていないのに、 店の配置まで覚えていそうだった。
真白は、 コーヒーを一口飲む。
「いい店ですよね」
「……うん」
「朝倉さん、 あそこいる時だけ、 ちゃんと人間っぽいですし」
「それ褒めてる?」
「半分くらいは」
真白は、 指を少しだけ開いて見せた。 湊は、 思わず笑った。
その空気が、 少し懐かしかった。
真白とは、 こういう会話ができる。
必要以上に踏み込まない。
でも。
核心だけは外さない。
編集室の時計は、 二時四十分を過ぎていた。
他のスタッフは、 ほとんど帰っている。
キーボード音だけが残る。
真白が、 不意に聞く。
「戻るんですか」
湊の手が止まる。
「東京に……」
静かな問いだった。
責めるでも、 期待するでもない。
ただ、 確認するみたいに。
湊は、 画面を見る。
港。
海。
レモナ。
それから、 編集室の蛍光灯。
東京の夜。
昔は、 ここへ来ることだけ考えていた。
まだ、 捨てきれていない場所。
「……わからん」
やっと出た言葉は、 それだけだった。
真白は、 小さく頷く。
「やっぱり、そうだと思いました」
湊は、 少し苛立ったように笑う。
「なんでもわかった顔するな」
真白は、 少しだけ視線を落とす。
「そりゃ、わかりますよ…」
静かな声だった。
「朝倉さん、 どっちも本気だから」
島も。
東京も。
レモナも。
映像も。
全部捨てきれない。
だから、 東京にいても、 島にいても、 少しだけ足元が揺れる。
真白は、 モニターの港を見つめる。
そして、 小さく呟いた。
「……帰れる場所ある人ほど、 選べなくなるんですよね」
編集室のモニターの中で、 港の波だけが静かに揺れていた。 第三十一章へ続く。




