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第四部『帰る場所編』第二十九章 「変わっていく気持ち」

第四部『帰る場所編』第二十九章

「変わっていく気持ち」

九月。

島から、 観光客の姿が少しずつ減り始めていた。

夏の終わり。

フェリー乗り場も、 前ほど騒がしくない。

『nagi』も、 昼過ぎを過ぎると静かになる日が増えた。

レモナは、 窓際の席を拭きながら、 港を眺める。

夏の光はもうない。

風だけが、 少し秋に変わっていた。

店のドアベルが鳴る。

「こんにちはー」

観光客らしい若い女性二人組だった。

スマホを片手に、 少し興奮した顔をしている。

「ここ、 映像に出てたカフェですよね?」

レモナは、 一瞬止まる。

「えっ……映像?」

「そうなんです、SNSで流れてきて!」

女性の一人が、 スマホ画面を見せてくる。

そこには、 湊が編集途中で短く切り出した、 島の映像が映っていた。

港。

海。

『nagi』。                レジ横や換気扇。

レモンソーダ。

コメント欄には、

『うわー行ってみたい』

『映画みたいだ』

『なんだか、泣きそう』

そんな言葉が並んでいる。

レモナは、 思わずカウンターを見る。 さっきまで、 濡れたコップを拭いていた場所だった。

この店は、 ずっとただの日常だった。

朝開けて。

コーヒー淹れて。

閉店して。

それだけの場所。

でも今は、 誰かにとって“特別な景色”になっている。

女性たちは、 嬉しそうに窓際の席へ座る。

「この席! 映像に映ってた!」

「ねぇ!レモンソーダ頼もうよ!」

レモナは、 注文を聞きながら少し笑う。

湊の映像が、 ちゃんと誰かへ届き始めている。

それは嬉しい。

でも。

同時に、 少し怖かった。

知らない誰かのスマホの中に、 自分の店が増えていく感じがした。

夕方。

店が落ち着いた頃。

レモナは、 一人で映像を見返していた。

湊が送ってきた、 未完成版。

港の風景。

祭り。

フェリー。

レモン畑。そして、 自分。

カウンター越しに笑う姿。

窓を開ける姿。

コーヒーを淹れる手。

映像の中の自分は、 自分が思っていたより、 ちゃんとここで生きていた。

でも。

その映像を見ていると、 妙な不安が湧く。

この景色は、 いつまで残るんだろう。

『nagi』は?

港は?

レモン畑は?

スマホが鳴る。

湊からの着信だった。

レモナは、 少し息を吐いてから出る。

「もしもし」

『今大丈夫?』

「うん」

後ろから、 東京の雑音が聞こえる。

人の声。

車。

遠いサイレン。

もう、 その音にも少し慣れてしまった。

湊が、 少し嬉しそうに言う。

『今日、 映像の試写やったんよ』

「どうだった?」

『反応よかった』

その声は、 ちゃんと嬉しそうだった。

レモナも、 自然に笑う。

「そう、よかったじゃん」

本当にそう思う。

でも。

次の言葉が、 少しだけ胸を締めつける。

『追加企画の話も出とる』

レモナは、 黙る。

東京との繋がりが、 また強くなる。

湊の世界が、 また少し広がる。

それは、 いいことのはずなのに。

“離れていく” 感覚も同時に大きくなる。

湊は、 その沈黙に気づいたのか、 少し声を落とした。

『……レモナ?』

「ん?」

『怒っとる?』

レモナは、 思わず苦笑する。

「怒ってないよ」

言ったあと、 レモナは窓の外を見る。

フェリーのライトが、 雨上がりの港に揺れていた。

レモナは、 指先でスマホの縁をなぞった。

港には、 夕方のフェリーが滑り込んでくる。

白い波だけが、 少なくなった便を迎えていた。

変わっていく景色。

レモナは、 静かに聞く。

「ねぇ湊…」

『うん』

「東京、 楽しくなってきた?」

電話の向こうで、 少し沈黙が落ちる。

その沈黙だけで、 レモナは少し傷つく。

すぐ否定できないくらいには、 もう東京が湊の一部になっている。

湊は、 ゆっくり答えた。

『……苦しいけど、 ちゃんと好きになってきとる』

レモナは、 目を閉じる。

それは、 正直な答えだった。

だからこそ、 痛かった。

人は、 新しい場所を好きになる。

そこで変わっていく。

それは悪いことじゃない。

でも。

レモナは、 しばらく港を見ていた。      第三十章へ続く。


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