第二十六章 「島に残る夜」
第二十六章
「島に残る夜」
その夜。
レモナは、 閉店後の『nagi』に一人残っていた。
時計は、 十一時を過ぎている。
客はいない。
コーヒーマシンの電源も落とした。
店内には、 冷蔵庫の低い音だけが残っている。
窓の外には港。
夜の海は暗くて、 境界がわからない。
レモナは、 カウンターに頬杖をついたまま、 ぼんやりその景色を見ていた。
東京へ行ってから、 湊は少し変わった気がする。
いや。
正確には、 “戻っていく” 感じだった。
映像を作っていた頃の湊。
夢を追っていた頃の目。
昔、 高校の帰り道で、 何度も見た顔。
レモナは、 その顔が好きだった。
でも同時に、 少し怖かった。
その目をしている時の湊は、 いつも遠くを見るから。
スマホが光る。
湊から。
『まだ起きとる?』
レモナは、 少しだけ笑う。
『店片付け中』
既読。
すぐに電話がかかってくる。
一瞬迷ってから、 通話ボタンを押した。
「もしもし」
『……もしもし』
少し疲れた声。
後ろで、 キーボード音がする。
東京の音だった。
レモナは、 その音を聞くだけで、 遠さを感じる。
「ちゃんと寝てる?」
『微妙』
「絶対寝てない顔してる」
湊が少し笑う。
その笑い声に、 レモナの胸が少し軽くなる。
しばらく、 他愛ない話をする。
コンビニ飯。
編集。
島の暑さ。
港の猫。
でも。
本当に話したいことは、 二人とも少し避けていた。
沈黙。
通話越しに、 小さく息を吸う音が聞こえる。
湊が、 ぽつりと言う。
『今日さ』
「うん」
『会議で、 島の映像見せたんよ』
レモナは、 静かに聞く。
『“エモい”って』
少し笑う声。
でも。
その奥に、 疲れが混じっている。
レモナは、 なんとなくわかる。
“褒められてるのに、 苦しい時の声”。
湊は続ける。
『なんかさ、 島が“作品”になる感じして』
レモナは、 窓の外を見る。
夜の港。
誰もいない道路。
街灯。
ここは、 自分にとって生活だ。
でも。
誰かにとっては、 特別な景色になる。
「……難しいね」
『うん』
「でも、 湊が撮るなら、 大丈夫な気する」
通話の向こうで、 数秒だけ音が消える。
『なんで』
レモナは、 少し考える。
それから、 正直に言った。
「湊、 港のおばちゃんとか、 ちゃんと長めに撮るやん」
『……そこ?』
「そこ」
レモナは少し笑う。
「景色だけ撮る人なら、 ああいう顔残さん気する」湊が、 小さく息を吐く。
『……今、 それ言われると泣きそう』
「編集室で泣かないでよ」
『もう半分泣いとる』
レモナは笑う。
その笑い声が、 店内に小さく広がる。
でも。
笑ったあと、 急に静かになる。
離れていることを、 思い出してしまうから。
レモナは、 無意識に聞いていた。
「ねぇ」
『ん?』
「東京、 楽しい?」
その瞬間。
電話の向こうが止まる。
レモナは、 自分でも嫌になる。
本当は、 こんなこと聞きたくなかった。
“楽しい” って言われたら苦しい。
でも。
“楽しくない” って言われても、 たぶん苦しい。
湊は、 少し時間を置いて答えた。
『……楽しいよ』
レモナは、 胸の奥が少し痛む。
でも。
続く言葉を待つ。
『でも、 ずっと息張っとる感じする』
レモナは黙る。
『島帰ると、 呼吸できる』
その言葉が、 静かに胸へ落ちる。
レモナは、 窓に映る自分を見る。
待つ側は、 不安になる。
置いていかれる気がする。
でも今、 少しだけ思った。
この人は、 ちゃんと帰ってきたいと思っている。
まだ、 それだけかもしれない。
約束ではない。
未来でもない。
それでも。
窓に映った自分は、 さっきより少しだけ、 泣きそうじゃなかった。 通話の向こうで、 誰かが湊を呼ぶ。
『あ、ごめん、 戻らんと』
「うん」
少し沈黙。
切りたくない空気。
でも。
切らなきゃいけない時間。
湊が、 静かに言う。
『……会いたいな』
レモナは、 目を閉じる。
その一言だけで、 また待ててしまう自分が悔しい。
「……うん」
短く返す。
それ以上話したら、 泣きそうだった。
電話が切れる。
静かな店内。
夜の港。
レモナは、 冷めたアイスコーヒーを一口飲む。
氷はもう、 ほとんど溶けていた。 外では、 遅いフェリーの汽笛が、 長く海へ響いていた。 第ニ十七章へ続く。




