第三部『春が終わる編』第二十三章 「東京の夜、島の朝」
第三部『春が終わる編』第二十三章
「東京の夜、島の朝」
東京へ着いた瞬間、 空気の匂いが変わる。
排気ガス。
熱。
湿ったコンクリート。
人の多さ。
フェリーを降り、 電車を乗り継ぎ、 湊はそのまま制作会社へ向かった。
スーツ姿の人波の中を歩きながら、 ふとスマホを見る。
レモナからの新しい連絡は、 まだ来ていない。
さっき港で見た姿が、 頭から離れなかった。
白い帽子。
風。
“いってらっしゃい”
あんな顔、 させたかったわけじゃない。
でも。
行きたかったのも本当だった。
制作会社のビルへ入る。
エレベーター。
蛍光灯。
編集室。
「朝倉さん、 お疲れっす!」
若いスタッフが、 コンビニおにぎりを片手に笑う。
モニターには、 大量の映像素材。
東京の夜景。
観光PR。
企業案件。
再生数。
数字。
ここでは全部、 “仕事”になる。
湊は席に座る。
パソコンを開く。
でも。
ふとした瞬間、 頭に浮かぶのは、 港の静けさだった。
「朝倉さん、 例の瀬戸内の映像、 めちゃ雰囲気ありますよね」
後輩スタッフが言う。
「なんか、 “帰りたくなる感じ”する」
湊は曖昧に笑う。
“帰りたくなる”。
その言葉が、 少し苦しかった。
誰かにとっては、 エモい地方映像。
でも。
映像の中で光っていた商店街は、 実際には、 夜七時でほとんど灯りが消える。
湊はそれを知っていた。
夜十一時。
編集室には、 まだ人がいた。
キーボード音。
缶コーヒー。
終電を逃したスタッフ。
東京では、 深夜でも仕事が終わらない。
湊は、 イヤホンを外す。
静かになった瞬間。
急に、 島の夜を思い出す。
波の音。
虫の声。
『nagi』の閉店後の灯り。
レモナ。
今頃、 何してるんだろう。
スマホを開く。
トーク画面。
オンライン表示はない。
電話をかけようとして、 止める。
たぶん、 閉店作業中だ。
疲れてるかもしれない。
何より。
声を聞いたら、 帰りたくなる。
その時。
「朝倉さん、 これどうします?」
スタッフに呼ばれる。
現実へ戻る。
湊は画面へ向き直る。
でも。
マウスを握る指が、 少しだけ止まった。
深夜二時。
作業が一区切りつく。
湊は、 会社近くのコンビニへ出た。
都会の夜は明るい。
人もいる。
車も走っている。
なのに、 妙に孤独だった。
レモン炭酸を買う。
無意識だった。
店を出て、 歩道橋にもたれる。
東京の景色を見る。
高層ビル。
ネオン。
救急車の音。
夢を追っていた頃は、 全部輝いて見えた。
でも今は。
この街で成功するほど、 島から遠くなる気がしてしまう。
スマホが震える。
レモナだった。
『まだ起きてる?』
湊は、 すぐ返信できなかった。
会いたくなるから。
帰りたくなるから。
でも。
打つ。
『起きとる』
すぐ既読。
『ちゃんと食べた?』
思わず笑う。
母親みたいだと思う。
でも、 その普通の言葉に救われる。
『コンビニ』
『またそんなの』
『東京やし』
少し間が空く。
それから。
『東京どう?』
湊は、 画面を見つめる。
楽しいはずなのに、 時々、 何しに来たのかわからなくなる
でも。
一番近い言葉は、 たぶんこれだった。
『うるさい』
レモナから、 小さな笑いのレモンスタンプ。
それを見た瞬間。
湊はようやく、 少しだけ息ができた気がした。
東京の夜。
島の朝。
東京は、 まだ救急車の音がしていた。
島では、 そろそろ朝の船が出る頃だった。
それでもまだ、 二人は同じ会話をしていた。
いつまで、 こうして繋がっていられるのかは、 わからないまま…。 第ニ十四章へ続く。




