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第二十二章 「東京へ行く日」

第二十二章

「東京へ行く日」

出発の日は、 朝から風が強かった。

港へ向かう坂道を、 湊はキャリーケースを引きながら歩く。

車輪が、 古いアスファルトに引っかかって、 がたがた鳴る。

まだ朝なのに、 湿った熱気が肌にまとわりついていた。

蝉が鳴いている。

夏が近い音だった。

湊は途中で立ち止まり、 振り返る。

坂の上。

住宅街。

遠くに見えるレモン畑。

高校生の頃、 早く出ていきたかった島。

でも今は、 離れるたびに、 身体のどこかが置いていかれる気がする。

スマホが震える。

東京の制作会社から、 今日のスケジュール連絡だった。

昼に打ち合わせ。

夜から編集。

そのまま撮影準備。

向こうへ着いた瞬間から、 仕事が始まる。

画面を閉じる。

その直後。

別の通知。

レモナだった。

『起きれてる?』

思わず少し笑う。

たったそれだけなのに、 胸の奥が柔らかくなる。

湊は返信する。

『今港向かっとる』

数秒後。

『そっか』

短い。

でも、 その“そっか”に、 たぶん色んな感情が入っている。

湊は、 何を返すか迷う。

『すぐ戻る』

違う気がする。

『頑張る』

もっと違う。

結局、 打った文字を全部消す。

返事ができないまま、 再び歩き出した。

港には、 いつもの朝があった。

フェリー待ちの会社員。

釣り客。

旅行鞄を持った老夫婦。

でも。

少しずつ、 人は減っている。

売店のシャッターは、 半分閉まったままだった。

張り紙。

『人手不足のため営業時間変更』

湊は、 その文字を見つめる。

売店の前に並んでいたはずの観光客はいない。

ベンチだけが、 潮風に白く乾いている。

学生たちの笑い声も、 今は聞こえなかった。

「うわ、 顔終わっとるやん」

航平だった。

片手に缶コーヒー。

寝癖。

サンダル。

相変わらず、 緊張感がない。

湊は苦笑する。

「朝から失礼やな」

「東京行く顔じゃなくて、 島追い出される顔しとる」

図星だった。

航平は、 缶コーヒーを投げてよこす。

冷たい。

「ありがと」

「レモナは?」

湊が聞くと、 航平は少しだけ目を逸らした。

「店開けるって」

「そっか…」              その答えだけで、 わかってしまう。

来れなかったんだ。              たぶん。

見送りに来たら、 笑えなくなるから。

湊は、 フェリー乗り場のベンチに座る。

航平も隣に座った。

しばらく、 何も話さない。

港のアナウンスだけが流れる。

『まもなく――』

航平が、 ぽつりと言う。

「お前さ」

「ん?」

「今回、 ちゃんと帰ってこいよ」

湊は、 返事に詰まる。

“帰る”。

最近、 その言葉がやけに重い。

東京へ行くたび、 自分が少し変わっていく。

話し方。

考え方。

夜中まで明るい街の感覚。

島へ戻っても、 完全には元に戻れない。

それでも。

帰りたいと思う。

この港へ。

『nagi』へ。

レモナのいる場所へ。

航平は、 海を見ながら続ける。

「最近さ、 みんな“そのうち帰る” って言うんよ」

「……うん」

「でも、 帰ってこん」

風が吹く。

フェリーが近づいてくる。

白い波が広がる。

「仕事あるし、 生活あるし、 向こうで恋人できたり、 結婚したり」

航平は笑う。

「別に悪いことじゃないけどな…」                   「空き家ばっか増えてさ」

「祭りも縮小して」

「港だけ静かになってくんよな」

湊は、 胸が苦しくなる。

東京へ行きたい。

映像を作りたい。

その未来の先で、 この島が消えていくのを、 ただ撮るだけの人間にはなりたくなかった。

フェリーが接岸する。

重い音。

揺れる床。

乗客が動き出す。

航平が立ち上がる。

「まぁ、 悩め」

「雑やな」

「お前、 悩んどる時が一番人間っぽい」

そう言って笑う。

湊も少し笑う。

でも。

乗船口へ向かう足は、 思ったより重かった。

フェリーに乗り込む。

窓際の席。

エンジン音。

少しずつ、 港が離れていく。

湊は、 無意識に港を探す。

いるはずないのに。

それでも。

探してしまう。

その時。

スマホが震えた。

レモナからだった。

『右見て』

湊は立ち上がる。

窓へ近づく。

港の端。

古い防波堤。

白い帽子を押さえながら、 レモナが立っていた。

小さい。

遠い。

でも、 すぐわかった。

レモナは、 手を振らない。

ただ、 真っ直ぐこっちを見ていた。

その姿が、 どうしようもなく、 レモナらしかった。

湊の胸が痛む。

電話したい。

今すぐ降りたい。

抱きしめたい。

でも。

フェリーはもう動いている。

進んでしまっている。

レモナから、 もう一件メッセージ。

『いってらっしゃい』

                       たったそれだけ。 なのに。              湊は初めて、 本当に怖くなった。

                        好きな人の毎日から、 自分が少しずつ遠くなっていくことが。                  第ニ十三章へ続く

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