第十九章 「言葉にした途端、戻れなくなる」
第十九章
「言葉にした途端、戻れなくなる」
雨は、 夜中になっても止まなかった。
店の時計が、 やけに大きく音を立てている。
レモナは、 カウンターの奥に立ったまま動かなかった。
湊も、 何も言えない。
さっきまで、 “恋人”だった空気が、 少しずつ壊れていく音がした。
でも。
壊したのは、 たぶん今日じゃない。
もっと前から。
既読を返せなかった夜。
仕事を優先した瞬間。
寂しいと言えなかった沈黙。
小さいものが積もって、 ここまで来てしまった。
レモナが、 先に口を開く。
「……ごめん」
湊は顔を上げる。
「なんでレモナが謝るん」
「私…重かったよね」
その言葉に、 胸が痛む。
違う。
そうじゃない。
でも。
湊はすぐ言葉にできない。
レモナは笑う。
「私、 もっとちゃんと応援できると思ってた」
強い彼女でいたかった。
夢を追う恋人を、 笑って送り出せる大人でいたかった。
でも現実は違った。
会えないだけで不安になる。
返信一つで落ち込む。
東京という言葉だけで、 胸がざわつく。
そんな自分が、 嫌だった。
湊はゆっくり近づく。
「レモナ」
「……ん?」
「俺、 別に東京が好きなわけじゃない」
それは本音だった。
東京は、 憧れだけの場所じゃない。
苦しくて、 息が詰まって、 何度も壊れかけた場所だ。
でも。
「映像作ってる時の自分は、 好きなんよ」
その言葉を口にした瞬間、 湊は自分で気づく。
結局、 自分はそこから逃げ切れていない。
好きなのだ。
誰かと作品を作る時間が。
景色を切り取る瞬間が。
“これを残したい” と思える感覚が。
レモナは、 静かに聞いていた。
それから、 小さく頷く。
「うん」
否定しない。
でも、 嬉しそうでもない。
その表情が、 現実だった。
恋愛は、 相手の夢を理解したら解決するわけじゃない。
理解しても、 寂しいものは寂しい。
苦しいものは苦しい。
レモナは、 カウンターに手をつく。
「ねぇ湊」
「……うん」
「もしさ」
その先を、 言うか迷っている顔だった。
でも。
逃げなかった。
「私が、 “行かないで”って言ったら」
湊の呼吸が止まる。
レモナの目が、 真っ直ぐこちらを見る。
「湊、 残ってくれる?」
店内が静まり返る。
冷蔵庫の音。
雨。
時計。
全部遠い。
湊は、 すぐ答えられなかった。
答えなきゃいけないのに。
ここで、 “残る” と言えば、 レモナはきっと泣いて喜ぶ。
その約束をした未来の自分を、 想像してしまう。
数年後。
港の景色。
穏やかな暮らし。
隣には、 レモナ。
それは、 きっと幸せだ。
なのに。
押し入れの奥に、 使わなくなったカメラが眠っている。
そんな未来を、 想像してしまった。
その沈黙だけで、 レモナには十分だった。
彼女は、 少しだけ目を閉じる。
「あぁ」
笑った。
泣きそうな顔で。
「やっぱり、 そうなんだ」
「違う、 俺は――」
「違わないよ」
レモナの声は、 優しかった。
優しすぎて、 残酷だった。
「湊、 私を選べないんじゃなくて」
雨音。
夜の海。
止まらない時間。
「“どっちかを捨てる”ことが、 できない人なんだよ」
その言葉が、 胸の一番深い場所に落ちる。
湊は、 何も言えなかった。
図星だった。
でも。
現実は時々、 “選ばないこと”すら、 誰かを傷つける。
レモナは、 涙を拭う。
「ごめん」
また、 笑おうとする。
「困らせたいわけじゃないのに」
湊は、 その顔を見るのがつらかった。
本当は抱きしめたい。
大丈夫だと言いたい。
でも。 湊の手は、
最後まで、レモナに触れられなかった。 第ニ十章へ続く。




