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第十八章 「東京に負ける、って思ってた」

第十八章

「東京に負ける、って思ってた」

電話は、 五分くらいだった。

でも…

レモナには、 もっと長く感じた。

湊は、 店の外へ出て話していた。

ガラス越しに見える背中。

真剣な顔。

何度も頷く姿。

その光景が、 妙に遠い。

レモナは、 閉店作業を続ける。

カップを洗い、布巾を絞り、床を拭く。

いつも通り。

でも、 心だけが全然追いつかない。

扉が開く。

湊が戻ってくる。

「……ごめん」

また、 その言葉だった。

レモナは、 笑えなかった。

「仕事?」

「うん」

「大事な?」

「……大事」

静かな会話。

でも。

その一言一言が、 少しずつ互いを削る。

湊は、 言わなきゃと思った。

隠したくなかった。

「来月、 東京長くなるかもしれん」

レモナの手が止まる。

シンクの水音だけが響く。

「どれくらい」

「まだわからん」

“わからん”。

またその言葉だ。

レモナは、 俯いたまま笑った。

「便利だね、その言葉」

湊が黙る。

わかっている。

逃げているように聞こえることくらい。

でも本当に、 まだ決まっていない。

決まっていないからこそ、 怖い。

レモナは、 蛇口を閉めた。

店内が急に静かになる。

「ねぇ湊」

声が少し震えていた。

「私、 東京に嫉妬してる」

湊が顔を上げる。

レモナは、 自分でも驚くくらい、 素直に言葉が出ていた。

「最初は、 高城さんに嫉妬してるのかと思ってた」

真白。

仕事を理解できる人。

同じ速度で走れる人。

東京の景色を知っている人。

でも違った。

「違ったんよ」

レモナは笑う。

泣きそうな顔で。

「湊が本当に好きなの、 東京の方なんじゃないかって」

その言葉が、 重く落ちる。

湊はすぐ否定できない。

終電後の編集室。

朝焼けのスタジオ。

誰かと徹夜で作った映像。

あの熱だけは、 嘘じゃなかった。

夢に近づいていた感覚も。

誰かと本気で作品を作る熱も。

全部、 嘘じゃない。

レモナは、 その沈黙を見逃さなかった。

「ほら」

小さく笑う。

「否定できないじゃん」

「……違う」

湊はようやく言う。

「違わんよ」

レモナの声が、 少し強くなる。

「この島にいる時の湊、 幸せそうなのに」

雨音。

遠くの船のエンジン。

レモナは続ける。

「仕事の話してる時の方が、 もっと生きてる顔してる」

その言葉は、 残酷なくらい正しかった。

湊は、 何も返せない。

レモナは、 唇を噛む。

本当は、 こんなこと言いたくなかった。

夢を否定したいわけじゃない。

でも。

現実には、 “好き”だけでは埋まらない距離がある。

レモナは、 湊のいない閉店後を想像してしまった。 誰もいない店。 冷めたコーヒー。 一人分の「お疲れ」。

「私、 待てると思ってた」

レモナが言う。

「高校の時みたいに」

でも、 大人になると違う。

仕事がある。

生活がある。

会えない時間に、 不安は勝手に育つ。

“信じる”だけでは、 追いつかない夜がある。

湊は、 ようやく口を開く。

「俺だって怖い」

レモナが顔を上げる。

「どっち選んでも、 失う気がする」

東京へ行けば、 レモナとの距離ができる。

島に残れば、 夢を諦めた自分を、 いつか嫌いになるかもしれない。

どちらも欲しい。

でも、 現実は時々、 二つ同時にはくれない。

レモナは、 静かに涙を拭った。

「それ、 ずるいよ」

「……え」

「夢追う側だけ、 苦しそうな顔できるじゃん」

その一言に、 湊は息を止める。

レモナは、 泣きながら笑った。

「置いてかれる側も、 ちゃんと苦しいのに」湊は、 何も言えなかった。 雨音だけが、 店に残っていた。             第十九章へ続く。

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