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第十七章 「好きなだけでは、一緒にいられない」

第十七章

「好きなだけでは、一緒にいられない」

六月の雨は長い。

朝から降って、 夜になっても止まない。

『nagi』の窓ガラスを、 雨粒が絶えず流れていた。

店内には、 静かなジャズが流れている。

でも。

レモナの気持ちは、 全然静かじゃなかった。

「……また東京?」

閉店後。

カウンター越しに、 思わず出た言葉だった。

湊は、 ノートパソコンから顔を上げる。

「あ、ごめん。 来週ちょっとだけ」

“ちょっとだけ”。

最近、 その言葉が増えた。

ちょっと会議。

ちょっと撮影。

ちょっと編集。

でも、 その“ちょっと”の間、 湊の心が遠くへ行ってしまう気がする。

レモナは、 食器を片づけながら言う。

「最近ずっと仕事してるね」

責めるつもりじゃなかった。

本当に。

でも、 口にした瞬間、 少し空気が冷える。

湊は困った顔をする。

「今、 大事な時期やから」

「うん。 わかってる」

わかっている。

だから、 余計にしんどい。

“理解できること”と、 “寂しくないこと”は別だった。

レモナは、 自分でも嫌になる。

応援したい。

ちゃんと。

でも。

会話中に、 スマホ通知を気にする横顔を見るたび、 胸の奥がざらつく。

自分の知らない世界で、 湊がどんどん必要とされていく。

その場所に、 自分はいない。

湊が言う。

「ごめん」

その謝罪が、 逆に苦しかった。

レモナは笑う。

「謝られると、 私が悪いみたいじゃん」

「そんなこと――」

「わかってる」

沈黙。

雨音。

冷蔵庫のモーター音。

恋人になってから、 一番長い沈黙だった。

湊は思う。

まただ。

空気が悪くなると、 言葉が出なくなる。

昔からそうだ。

喧嘩が怖い。

嫌われるのが怖い。

だから、 黙る。

でも。

黙るほど、 相手は不安になる。

わかっているのに。

レモナは、 小さく息を吐く。

「ねぇ湊」

「……ん?」

「私たち、 ちゃんと付き合えてる?」

その質問に、 湊の胸が詰まる。

レモナは続ける。

「一緒にいるのに、 最近ずっと遠い」

その言葉は、 正しかった。

隣にいるのに、 頭の中は別々の場所にある。

湊は東京の締切を考え、 レモナは、 その湊を失う未来を考えている。

同じ景色を見ていない。

レモナは、 俯いたまま笑う。

「なんかさ、 高校の時の方が近かったね」

その一言が、 鋭く刺さる。

でも。 あの頃の方が、 ちゃんと互いを見ていた。

湊は立ち上がる。

「俺、 ちゃんとやるから」

レモナが顔を上げる。

「……何を?」

その問いに、 湊は止まる。

仕事も。

恋愛も。

夢も。

全部。

そう言いたかった。

でも。

“全部ちゃんとやる” は、 時々、 何も具体的じゃない。

レモナは、 静かに笑った。

泣きそうな顔で。

「湊って、 ずっと頑張ってるよね」

責めているわけじゃない。

でも、 その優しさが苦しい。

「でもさ」

雨音が強くなる。

「頑張ってる人って、 急にいなくなるから怖い」

湊は、 何も言えなかった。

東京で倒れた日のことを、 レモナは知らない。

でも、 見えているのだ。

また無理をしていることが。

また、 自分を削っていることが。

その時。

湊のスマホが震える。

東京からの着信。

画面が光る。

二人の視線が、 同時にそこへ落ちる。

数秒。

誰も動かない。

そして。

湊は、 電話を取った。

その瞬間。

レモナの表情が、 少しだけ消えた。     第十八章へ続く。

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