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第十五章 「春が終わる音」

 第十五章

「春が終わる音」

 数日後。

 島の空気は、 少しずつ初夏へ変わり始めていた。

 港の風が、 春より軽い。

 フェリー乗り場の自販機には、 冷たい飲み物のポスターが増えていた。

 制服姿だった高校生たちも、 半袖が増えている。

『瀬戸内レモンタルタルベーコンてりたま』 は、 正式に販売終了した。

 店先からポスターが消える。

 それだけで、 妙に寂しかった。

「終わったねぇ」

 レモナが言う。

『nagi』のカウンター。

 閉店後。

 窓の外には、 夜の海が見える。

 湊は苦笑した。

「毎年そんな喪失感あるん?」

「あるんよ。 春終わった感じする…」

 レモナは、 レジ横の小さなレモンの置物を指で回した。

「期間限定ってさ」

 少し考えるみたいに笑う。

「終わるから、 特別なんかな…」

 その言葉に、 湊は少し黙った。

 最近、 二人の間には、 時々こういう沈黙が落ちる。

 嫌いになったわけじゃない。

 むしろ逆だ。

 大事だから、 簡単に話せないことが増えた。

 湊は、 東京の企画書を見ていた。

 ノートパソコンの画面。

 締切は、 一週間後。

 受けるなら、 本格的に動き始める。

 オンライン会議。

 撮影準備。

 東京とのやり取り。

 つまり。

 また、 東京の時間へ戻っていく。

 レモナが、 そっと聞く。

「今日、 打ち合わせだったんでしょ?」

「うん」

「どうだった?」

 湊は少し迷う。

 でも、 正直に言う。

「……楽しかった」

 その瞬間。

 レモナは笑った。

 ちゃんと。

 無理じゃなく。

「そっか」

 その笑顔に、 逆に胸が痛くなる。

 レモナは、 嬉しいのだ。

 湊が、 また好きなものに触れていることが。

 でも同時に、 怖いのだ。

 また遠くへ行ってしまうかもしれないことが。

 大人になると、 感情は一色じゃなくなる。

 嬉しいのに寂しい。

 応援したいのに苦しい。

 湊は、 パソコンを閉じた。

「……レモナ」

「ん?」

「もし俺、 東京の仕事やっても」

 言葉が詰まる。

 また、 うまく言えない。

 レモナは静かに待っていた。

 昔みたいに急かさない。

 ちゃんと、 最後まで聞こうとしてくれる。

 湊は息を吐く。             また曖昧なまま離れたら、 今度こそ終わる気がした。

「ちゃんと、 帰ってくるから」

 それは、 完璧な約束じゃなかった。

 “ずっと島にいる” とも言えない。

 でも。

 今の自分が、 一番嘘をついていない言葉だった。

 レモナは、 少しだけ目を伏せる。

 それから、 小さく笑った。

「うん」

 その“うん”には、 信じたい気持ちと、 怖い気持ちの両方が混ざっていた。

 その時。

 店の外で、 急に雨が降り始める。

 夏前の雨。

 強く、 突然で、 少しだけぬるい。

「うわ、降ってきた」

 レモナが窓を見る。

 湊も立ち上がる。

 二人で店の外へ出る。

 軒下。

 雨音。

 濡れた港。

 街灯の光が、 水たまりに揺れている。

 レモナが、 ぽつりと言う。

「ねぇ」

「ん?」

「キスって、 タイミング難しくない?」

 湊の思考が止まる。

「……は?」

 レモナは笑う。

 でも耳が赤かった。

「いや、 付き合ったのに、 まだしてないなって」

 湊の心臓が、 一気にうるさくなる。

 二十八歳とは思えない動揺だった。

 レモナは、 少し照れながら笑う。

「高校生みたいだね、私たち」

 その言葉に、 湊も笑ってしまう。

 たしかにそうだった。

 十年越しなのに、 変なところだけ不器用なまま。

 雨音が強くなる。

 近い。

 息が聞こえる距離。

 レモナは、 少しだけ視線を上げる。

 逃げたくなかった。

 湊は、 ゆっくり彼女へ近づく。      雨音だけが、 二人の間を埋めていた。

 潮の匂い。

 雨の音。

 レモンみたいな甘い香り。

 触れる瞬間、 レモナが少し笑った。

「……ほんと、遅い」

 雨音が、 少しだけ遠くなった。      第十六章へ続く。

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