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第二部『選択編』 第十三章 「晴れた日の不安」

第二部『選択編』

第十三章

「晴れた日の不安」

春は、 終わりかけていた。        港の売店から、『瀬戸内レモンタルタルベーコンてりたま』 のポスターが消えていた。

色褪せたテープ跡だけが、 ガラスに残っている。

春が終わる時は、 いつも少しだけ唐突だ。

それだけで、 季節が一つ終わった気がした。

朝、 LINEを開くたび、

レモナの名前が一番上にあることに、 まだ少し驚く。

付き合った。

たしかに。

ちゃんと気持ちを伝えた。

なのに。

朝起きると、 時々まだ夢みたいに思う。

「……なんでそんなニヤニヤしとん」

航平が呆れた顔をする。

漁協の倉庫前。

朝の港。

発泡スチロール箱の匂い。

湊は慌てて顔を戻した。

「してない」

「しとる」

航平は魚を運びながら笑う。

「お前、 高校ん時よりわかりやすいぞ」

「二十八やぞ俺」

「二十八にもなって初彼女みたいな顔すんな」                   湊は発泡スチロール箱を持ち上げるふりをした。

「重っ」                 「話逸らすなや」

でも否定できなかった。

恋人になったレモナは、 少しだけ距離が近い。

歩く速度とか。

視線とか。

名前を呼ぶ声とか。

そういう小さな変化だけで、 湊の心臓は未だに普通じゃない。

「今日、 店来るんやろ?」

航平が聞く。

「夕方な」

「はいはい」

ニヤニヤしている。

島というのは恐ろしい。

付き合った翌日には、 ほぼ全員知っていた。

スーパーのおばちゃんに 「やっとか」 と言われた時は、 さすがに逃げたくなった。

昼過ぎ。

湊は一人で海沿いを歩いていた。

最近、 カメラを持ち歩くようになっていた。

昔使っていたミラーレス。

東京にいた頃は、 仕事以外で撮ることなんて、 ほとんどなくなっていた。

でも今は。

港の猫とか。

フェリー待ちの高校生とか。

干された漁網とか。

そういうものを、 気づけば撮っている。

カシャ。

シャッター音が鳴る。

振り返ると、 小学生の男の子が笑った。

「撮った!」

「勝手にモデル料発生するぞ」

「レモンジュース一本!」

「高ぇな」

そんなやり取りをして、 子供は走っていく。

湊は写真を見返す。

光が柔らかい。

東京では、 いつも“見せるため”に撮っていた。

でも今は、

猫があくびした瞬間とか、

フェリー待ちの制服の背中とか、

そういうものばかり撮っている。

誰かに見せたいというより、 残したかった。

その時。

スマホが震える。

知らない番号だった。

出る。

「……はい」

『朝倉湊さんですか?』

男性の声。

『以前ご提出いただいた、 地域映像企画の件で』

湊の足が止まる。

海風が吹く。

『正式にお話したく、 一度オンライン打ち合わせを――』

東京の仕事だった。

忘れかけていた現実が、 また近づいてくる。

通話を終えたあと、 湊はしばらく動けなかった。

嬉しいはずだった。

本当なら、 飛び上がるくらい嬉しい。

やりたかった仕事だ。

地方の風景を撮る企画。

しかも今回は、 かなり自由度が高い。

でも。

胸の奥に、 別の感情が混ざる。

もし受けたら。

また東京との距離が近くなる。

この島で、 レモナと過ごす時間も変わる。

「……選ばんとな」

潮風が吹く。

ポケットのスマホが、 やけに重かった。

考えることが増えていた。

東京。

仕事。

この島。

そして、 レモナ。

春が終わる前に、 何かを決めなきゃいけない気がしていた。

夕方。

『nagi』の扉を開ける。

からん、とベルが鳴る。

レモナが顔を上げる。

「いらっしゃ――あ」

その瞬間だけ、 彼女の笑い方が少し変わる。

恋人に向ける顔。

それだけで、 湊は救われる。

「お疲れ」

「お疲れ。 今日なんか顔難しくない?」

図星だった。

レモナはすぐ気づく。

昔からそうだ。

湊はカウンター席に座る。

少し迷ってから言う。

「……仕事の話、 来た」

店内の空気が、 ほんの少しだけ静かになる。

窓の外では、 夕方のフェリーが港へ入ってくる。

レモナは、 数秒黙っていた。

それから、 少しだけ口角を上げた。                「そっか」                        レモナは、 一度だけ視線を落とした。

その癖を、 湊は知っている。

その笑顔の奥で、 彼女もまた、 何かを選ぼうとしていることに。          

第十四章へ続く。

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