第十二章 「春が終わる前に」
第十二章
「春が終わる前に」
雨が止んだのは、 昼を少し過ぎた頃だった。
港の空に、 薄い光が戻ってくる。
濡れた道路。 水たまり。 潮の匂い。
瀬戸内の雨上がりは、 世界が少しだけ柔らかい。
待合室を出たあとも、 湊とレモナは、 なんとなく一緒に歩いていた。
特別なことは何も話していない。
でも。
十年間、 喉に引っかかっていたものが、 少しずつ溶けていく感覚があった。
海沿いの道。
猫が昼寝している。
小学生たちが、 水たまりを避けながら帰っていく。
レモナが、 ふと笑う。
「なんか不思議」
「何が?」
「十年引きずったわりに、 ちゃんと話すと一日なんだなって」
湊は苦笑する。
「まぁ、 半分くらい俺が悪いし」
「全部とは言わない優しさ」
「保身や」
レモナが吹き出す。
その笑い声が、 やけに嬉しかった。
高校時代、 一番好きだった声だと思う。
二人は防波堤へ座る。
波は穏やかだった。
向こうの島影が、 雨上がりの光でぼやけている。
レモナが缶コーヒーを渡してくる。
「また甘いやつ」
「疲れた人用」
「航平と同じこと言うやん」
「あいつ、 昔から湊のこと理解しすぎなんよ」
缶を開ける。
甘い。
でも今日は、 少しだけ美味しく感じた。
沈黙。
でも、 もう怖くない沈黙だった。
レモナが海を見る。
「湊さ」
「ん?」
「これからどうするの」
その質問は、 前とは少し違っていた。
試すみたいな声じゃない。
ちゃんと、 隣に立とうとする声。
湊は空を見る。
白い雲が、 ゆっくり流れている。
「……まだわからん」
正直に言う。
でも、 今までとは違う。
“逃げるためのわからない” じゃなかった。
「東京戻るかもしれんし、 こっち残るかもしれん」
レモナは頷く。
急かさない。
答えを決めつけない。
それが、 ありがたかった。
「でも」
湊は続ける。
「映像は、 やめたくない」
口にした瞬間、 少しだけ胸が軽くなる。
ずっと、 怖かった。
夢を続けることも。
諦めることも。
中途半端なまま、 立ち止まっていた。
レモナは笑う。
「うん。 やめない方がいいと思う」
「なんで」
「湊、 好きなもの撮ってる時だけ、 ちゃんと目ぇ生きてる」
図星だった。
高校時代から、 レモナはそういうところを見抜く。
レモナは、 防波堤に手をつく。
「この島さ」
「うん」
「何もないって思ってたけど」
風が吹く。
髪が揺れる。
「案外、 撮るものいっぱいあるかもね」
その言葉に、 湊は海を見る。
フェリー。
港。
レモン畑。
静かな夕方。
人の暮らし。
そして。
ここで待っていてくれた人。
東京じゃないと、 映像は作れないと思っていた。
でも本当にそうなのか、 少しわからなくなっていた。
その時。
遠くから、 軽トラのクラクションが鳴る。
「おーい! やっと付き合ったんかお前らー!」
航平だった。
窓から顔を出し、 全力でニヤニヤしている。
「うるさい!」
レモナが叫ぶ。
「島中知っとるぞー!」
「最悪!!」
湊は笑ってしまう。
レモナも、 顔を隠しながら笑っていた。
春の風が、防波堤を抜けていく。
どこかの畑から、 甘い柑橘の匂いが流れてきた。
終わりそうだった季節が、 少しだけ続いていく気がした。 湊は、 隣のレモナを見る。
十年前、 言えなかった言葉。
遠回りした時間。
途中だった恋。
レモナが、 小さく肩をぶつけてくる。
「ねぇ」
「ん?」
「来年も食べる?」
「何を」
レモナは笑う。
「瀬戸内レモンタルタルベーコンてりたま」
湊も笑った。
「長いんよ名前が」
でも。
きっと来年も、 一緒に食べたいと思った。
春が来るたび、 思い出す恋じゃなく。
春が来るたび、 隣にいる恋として。 第二部『選択編』 第十三章へ続く。




