第十章 「フェリーが出る前に」
第十章
「フェリーが出る前に」
翌朝は、 雨だった。
瀬戸内の雨は静かだ。
叩きつけるんじゃなく、 景色の輪郭をぼやかしていく。
海も、 空も、 島影も、 全部少し白くなる。
湊は港へ向かっていた。
傘を差していても、 潮混じりの雨が肩を濡らす。
昨夜、 ほとんど眠れなかった。
レモナの言葉が、 ずっと頭に残っている。
――春限定ってさ。 終わるから、 みんな食べたくなるんだよ。
あれはきっと、 ハンバーガーの話じゃない。
わかっている。
わかっているのに、 まだ自分は、 答えを出せていない。
港には、 真白がいた。
ベンチに座り、 小さなキャリーケースを横に置いている。
グレーの空。
白いフェリー。
白い港の景色の中で、 真白のグレーのカーディガンだけが妙に都会っぽく見えた。
「おはようございます」
「……早いな」
「朝の便しか取れなくて」
真白は立ち上がる。
フェリーの出発まで、 まだ少し時間があった。
二人で、 屋根の下へ移動する。
雨音が鉄骨に当たる。
「島、 どうでした?」
真白が聞く。
「どうって」
「嫌いじゃなさそうだったので」
湊は苦笑する。
「まぁ……思ったより」
真白は頷く。
「朝倉さん、 ここだとちゃんと息してます」
その言葉に、 湊は少し黙る。
東京にいた頃は、
走り続けることばかり考えていた。
置いていかれないために。
ここでは、 深呼吸する回数が増えている気がした。
真白は、 そんな湊をずっと見ていたのだろう。
「……戻れって、 まだ思う?」
湊が聞く。
真白は少し考える。
それから、 静かに答えた。
「思います」
即答だった。
「朝倉さんの映像、 好きなので」
雨音。
フェリーのエンジン音。
遠くでカモメが鳴く。
「でも」
真白は続ける。
「戻るなら、 ちゃんと戻ってください」
まっすぐな目だった。
「“逃げながら”戻ると、 また壊れるので」
その言葉は、 優しいのに厳しかった。
真白らしいと思う。
彼女は、 甘やかさない。
でも、 ちゃんと見ている。
「……レモナさんのこと、 好きなんですね」
不意に言われ、 湊は息を止めた。
誤魔化せる空気じゃなかった。
真白は少し笑う。
「昨日見てたらわかります」
「そんなわかりやすい?」
「かなり」
湊は顔を覆いたくなる。
真白は窓の外を見る。
雨に霞む海。
真白は少し黙った。
雨に霞む海を見たまま、 小さく言う。
「……羨ましかったです」
「え」
「帰りたくなる場所があるの」
真白は、 少しだけ寂しそうに笑った。
初めて見る顔だった。
東京では、 誰より強く見えた人。
でもきっと、 この人にも、 帰れなかった場所がある。
フェリー乗り場に、 出航アナウンスが流れる。
時間だった。
真白はキャリーケースを引く。
「朝倉さん」
「ん?」
「映像、 やめないでください」
その一言が、 胸に残る。
夢を諦めきれなかった自分を、 見透かされた気がした。
真白はフェリーへ向かう。
途中で一度だけ振り返る。
「あと」
「?」
「今度は、 ちゃんと言った方がいいです」
そう言って笑った。
珍しく、 少しだけ悪戯っぽく。
フェリーへ乗り込む背中を、 湊は見送る。
雨はまだ降っている。
白い汽笛が鳴る。
船がゆっくり離れていく。
湊は、 ポケットのスマホを握った。
画面には、 レモナとのトーク画面。
最後のメッセージは、 昨夜のまま止まっている。
指が動かない。
また、 迷っている。
その時。
港の売店から、 聞き慣れた声がした。
「……やっぱおった」
振り返る。
傘を差したレモナが、 少し息を切らして立っていた。
白いパーカー。
濡れた髪。
その姿を見た瞬間、 湊の胸が大きく鳴る。
レモナは、 フェリーを見送る湊を見て、 少し笑った。
「見送り、 ちゃんと行くタイプなんだ」
その言葉の意味を、 湊は考えてしまう。
“行かなかった卒業式の日”を、 彼女も思い出している気がした。
雨の港で、 二人は向き合う。
今度こそ。
“途中”のままだった何かに、 手を伸ばすみたいに。 第十一章へ続く。




