第10話
右手の指先に灯った小さな焔を、アイシャはゆっくりと空中へと浮かべる。
浮かべながら大きさを増し、テニスボールほどの大きさの火の玉を作り上げた。
次に、左の手のひらを上に向けると水滴ほどの水球が浮かび、徐々に大きくなる。
そうして、こちらも丁度テニスボールほどの大きさまで成長して止まる。
「こんな感じだ。」
アイシャは生成した火球と水球をしばらく浮かべている。
火球の方は、人魂ってこんな感じだろう。のイメージ通り―……ただ色だけは赤い。
水球に至っては、球体と呼ぶには程遠い。
渦巻く水流が空中に浮いていると言ったところか。
「ありがとう。」
楓がお礼を言うと、アイシャはそれまで浮いていた焔と水流を一気に霧散させた。
しばらく無言になる楓。
いろいろな思いが胸に去来する。
愛沙とアイシャの出来事、
愛沙から聞いていた夢の中や弓道場での話。
それからアイシャのことをどうすればいいのか、そしてネルグのこと。
思うこと考えることが多すぎて、やもすれば呆けてしまいそうになる。
(愛沙が見てたらきっと喜んだんだろうなぁ。
愛沙の大好きな世界観。
本の中だけじゃなかったって……きっと大喜びしてたはず……)
楓の沈黙にアイシャも声がかけづらく、しばらく無言の時間が流れた。
「なんかのど渇いたね。」
楓がぽつりと言った。
「……ちょっとなんか買ってくるけぇ。 で、何飲む?
……って言うても、わからんよね。
ほんなら一緒に行こか。」
部室を出てもまだ、楓の胸の奥はざわついていた。
さっきのアイシャの魔法は、あまりにも“この世界”とかけ離れすぎている。
当然のようにネルグ(魔法)を使う世界があった。
アイシャの能力を他の誰かに見られでもしたら、
説明……どころじゃない。アイシャの身が危なくなってもおかしくない。
それはそのまま、愛沙の帰る場所が……
(……とにかく何とかしないと……)
アイシャの居たであろう世界とこの世界には、圧倒的世界観の乖離がある。
アイシャにとってこの世界は未知の世界。
だから、見るもの、聞くもの、触れるもの……
何にでも過剰に反応するのは目に見えとる。
あわせて何を口走るか。
その結果、何が起こるか全くわからない。
不安がうず高く山のようにそびえたような感覚に陥る。
(……1つ1つ潰していくしかない。)
部室の空気は停滞していて重苦しくて息がつまる。
それに比べると、若干の肌寒さはあるが風があるだけ心地よい。
自販機の前に行くだけで、アイシャの目が物珍しそうにあちこちと向くのが分かる。
楓はその様子から、大声で騒がないようにアイシャに無言で圧をかける。
『何も言わんで!』
アイシャに向けられた視線がそう語っていた。
それは正確にアイシャにも伝わったようで、コクコクと頷く。
「温かいのと、冷たいのはどっちが飲みたい?」
自販機の前に二人で並ぶと、楓は自然な態度でアイシャに尋ねる。
アイシャは、目の前に並んだ飲料の見本をしばらく眺めると、少し迷ったように答える。
「……冷たい方で。」
楓は、愛沙がいつも選ぶサイダーのボタンを押そうとして思い出し、指を止めた。
「じゃあ、刺激のあるのとないのはどちらがええ?」
「刺激? 刺激する飲み物があるのか?」
そんな飲み物美味しいのか?とでも言いたげな表情を浮かべてアイシャが答える。
「……あぁ、ごめん。喉がシュワシュワってするやつのこと。
そういうのがええか、しないのがええかって意味ね。」
楓は、炭酸飲料と言っても通じないと気を利かせたつもりが、難しい。
「すまん……。しゅわしゅわ、というのがよくわからん。
その...果実水のようなものはないのか?」
「果実水? ……あぁ、果汁入りのね。
えっと……りんご、オレンジ、グレープくらいかな?
あとはシュワシュワ入り。」
改めて見本に目をやりながら楓がアイシャへ教えてやる。
「そうか?ならば、グレープとやらにしよう。」
「うん分かった。グレープね。」
楓はお金を投入しながら、背後のアイシャに念を押す。
「何が起こっても大丈夫だけぇ。動じずに静かに見ててね。いい?」
ボタンが点灯し、グレープのボタンを押す。
ガチャッ……ゴトッ
ペットボトルが落ちる音にアイシャの「おぉ!」という声が漏れかけ……
「愛沙!」
楓が鋭く目で制した。
アイシャは慌てて口を押さえ、しゅんと肩をすぼめる。
楓は自分の飲み物も買い、取り出し口から二つを取り出すと、
お釣りをポケットにしまう。
グレープ飲料をアイシャに押し付けるように渡しながら、
『もう!』
目に力を籠めてアイシャを見るが、先ほどの視線よりはあたたかい。
「すまぬ。」
アイシャの消え入りそうな声に、楓は肩をすくめて笑う。
「まぁ、予想は付いとったけどね。」
「じゃ、部室...さっきの部屋に戻ろうか」
楓の笑顔に促され、二人は部室に戻った。
部室に戻ると楓はアイシャのペットボトルを手に取ってふたを開けて見せる。
次いで、自分のペットボトルも開けてから
「まあ、こんな感じだで。ついでにシュワシュワ飲んでみる?」
楓はアイシャに、先に飲んでみろと勧める。
勧められるまま一口飲んだアイシャは目を丸くする。
「おぁっ。何とも奇妙な感覚だ。……たしかにシュワシュワだな。」
アイシャは暫くペットボトルを眺めていたが、
『ありがとう。』と楓に手渡すと、代わりに楓は笑ってアイシャにグレープ飲料を渡す。
「気に入ったんなら、次の機会に飲んでみればええよ。 はい、これ。あんたの分ね。」
楓のカルチャー教室は続く。
ポケットからお釣りを取り出すと、机の上に並べて見せる。
「何から説明すればええか分からんけど……
これがこちらのお金ね。
全部そろっとらんけぇ、全部の説明はできんけど」
楓は机の上の10円玉を指し示すと、
「これが、10円。これが10枚で100円……計算はできるよね?」
「無論だ。」
「なら、コインも、紙幣も全部数字……数字で金額が書いとるけん。
それで判別つくはずよ。家に帰ったら見せるけんね。」
楓はそう言ってから、ふと思い当たる。
「愛沙の財布があったろ?」
楓に言われたところでアイシャには分からない。
仕方なく勝手に愛沙のカバンを探る。
(ふふ、あった。)
「やっぱり入っとる。」
財布を開くと、見事に全紙幣がそろっている。
(あ!2000円札がないけど、普段見んけん……ええか。)
「愛沙はね、じいちゃんの手伝いしながら自分でも獲っとるんよ。
その分、じいちゃんからお金もろうとるんよ。」
それは、法律上どうなのかは楓も知らないが、
「愛沙は『全部じいちゃん名義でやっとるけん大丈夫』と常々言っとった。」
と続けて言った。
「獲っとるというのは狩猟のことだな?随分とお金になるのか?」
「多少はね。私も詳しくはわからんけん。
でも許可……免許とか許可がいるから勝手にできんよ。」
それを聞いて肩を落とした様子のアイシャ「……そうか。」と小さくつぶやく。
(ありがちだから釘は差しとかんとね。
勝手に猟とか始められたら目も当てられんけぇ。)
楓は話をすばやく戻してお金の説明を続ける。
「はい、これが10000円札、こっちが5000円札。
で、これが1000円札ね。ついでにこれが500円玉」
アイシャは紙幣とコインをじっくり観察して、すぐに理解したと頷く。
「確かにすべてに数字が入っていてわかりやすいな。
1000円札が10枚で10000円ということか?」
「そうそう。理解が早いと助かる。
ちなみにアイシャのその飲み物は170円。わかるね?」
アイシャはコインを見比べながら170円分を集めて見せた。
「そういうこと」
よくできましたと言わんばかりの楓の表情にアイシャも笑みがこぼれた。




