第60話 初めての冬へ(その3)
さつきちゃんと別れて家に帰り、お母さんと一緒に、お昼のうどんを食べた。
とりあえず明日の予習を何となくやってから午後のけだるい時間をぼうっと過ごしていると、お父さんが帰ってきた。
今日は、お父さんの月に一度の病院の日だった。午後からの半日休暇を取り、精神科へ行くのだ。ああ、そういえば、今日だったんだ、と、何となくお父さんがいる台所へ向かった。
お父さんはテーブルでコーヒーを飲んでいた。僕も自分のカップにコーヒーを注ぎ、レンジで温めてから、お父さんの向かいに座った。
お父さんは録画して溜まっていた深夜枠の情報番組が映し出されているテレビの画面を見、背中を丸めてコーヒーを飲んでいた。
「かおるも午後は無しだったんだ」
お父さんは、顔を僕の方に僅かに上げて、呟くように言った。僕は、うん、とだけ答え、そこで会話は一旦途切れた。
僕は、再び会話を始めようかどうしようか、迷った。昼にさつきちゃんと検証して歩いた経路のこと、土砂降りの日、おばあちゃんに‘サイダー’を買ってきて上げたこと。まず、話そうかどうしようか、もし、話すとしたら、どこからどこまで話そうか、考えて無言の時間がしばらく経過する内に、お父さんの方から会話が再開した。
「今日、病院の日だった」
話題を始める、という前触れの言葉からお父さんが話し始めた。
「お父さんがこんなこと言っても意味ないかもしれないけれど」
お父さんは間を少し取りながら、自分にも言い聞かせるように続ける。
「もし、かおるが、何か学校のことでも他のことでも、嫌なこととかあったら、何でも話してな」
お父さんは、そこで一瞬目をつぶる。また、ふっと目を開けてこう言った。
「本当に、何でもいいから、話してな」
お父さんは息子の顔色や態度から悩みがあるとか調子が悪いとか気付いたり、あるいは、読み取ろうとしたりする人ではない。その辺、お父さんは、おばあちゃんからよく注意を受けていた。だから、今もお父さんは僕の様子を読み取った訳ではなく、一般論として言っているだけだろうと想像する。
けれども、せっかくお父さんの側からこういう話が出たので、僕は、話すことにした。
まず、土砂降りの日のサイダーの件を当日の事実どおりに。その後、ちょっと躊躇したが、さつきちゃんと僕の、今日の検証の話。それから、余計なおまけかもしれないけれども、さつきちゃんが、お父さんに話したら、ということも最後に付け加えた。
さつきちゃんがお父さんに話したら、という部分で、お父さんは、えっ、という顔をし、それから少し俯き加減で笑った。
「その日向さんとかおるはどういう間柄?」
僕はさすがに家族の前では‘さつきちゃん’ではなく、‘日向さん’と話していた。なので、彼氏彼女でもなく名前で呼び合う関係、という説明もしづらい。
割と真面目な悩み事とかを相談し合えること、太一も含めた男女の仲好しグループの一員であること、などを、できるだけ、変な間柄ではないということを強調しつつ説明した。
隣で夕飯の支度をしているお母さんの顔が徐々に険しくなっていることへの配慮でもあった。
僕は全体のコメントを訊く前に、このことから改めて訊いた。
「どうして、あの日、‘雨なのに、雨が降っているんじゃない気がする’、って、言ったの?」
「そんなこと、言った?」
お父さんの答えに、拍子抜けする。けれども、僕の拍子抜けの反応を見るか見ないかの内に、
「きっと、無意識で自動的に言ったんだな」
とお父さんは呟いた。独り言を言うようにお父さんは続ける。
「変な奴かと思うかもしれないけど」
僕は、お父さんのことを、随分小さい頃から‘変な奴’と思っているので、今更何を言われたところで、驚きもしない。
「たまに、こんな風に思う」
お父さんはコーヒーを一口飲んで、続けた。
「降っているのが雨じゃなくても、別にいいのかな、って」
僕はお父さんの言っている文章の表面上の意味は分かったけれども、何が言いたいのかは全く想像できなかった。そう思って考え込みそうな僕の様子を見てか、お母さんが声をかけてきた。
「お父さん、かおるを悩ませるような変なこと言わないで」
お父さんは、ごめん、と言って、そこから10秒くらい、誰も何も喋らなかった。僕は、このまま話が終わってしまったら元も子もないと思い、慌ててお父さんに、平気だから続けるように促した。
お父さんは、話を再開した。
「たまに、こんな風に感じるんだけど。土砂降りの中を歩くと、スーツが濡れる。そしたら、スーツの裾がぺたっとふくらはぎの辺りにくっつく」
よく分からないけれども、続きを聞く。
「でも、会社に着いて、仕事をしてる内に乾く」
まだ分からないけれども、僕はじっとお父さんの胸の辺りを見て聞き続けた。
「多分、これが雨じゃなくて、汗でも同じことになるはず。真夏なんかに、たまにそうなる」
さすがに、結論がどこに行くのか、不安になってきた。もしかしたら、お父さんは、何かの冗談を言っているのだろうか。
「降ってるのが雨じゃなくて、汗だとどう?」
どう?と言われて、僕は、ちょっとだけ間を置いて、答えた。
「すごく、嫌な感じがする」
お父さんは、少しだけ真剣な顔をして、僕の顔を見つめ、さらに僕に言った。
「なら、降っているのが雨じゃなくて、水だったら?」
「・・・雨って、水じゃないかな?」
僕の答えに、お父さんは目を閉じた。ゆっくりと目を開けて、呟く。
「雨は、水じゃなくて、雨だよ」
僕は、なぞなぞをしている気分になる。もしくは、こういうのを禅問答というのだろうか。
何か言おうと考えるけれども、言葉が出て来ない。僕がむずむずしている内に、お父さんがまた喋りだした。
「結果が同じなら、降っているのが雨じゃなくて、水でも同じかな、って、多分、その日の朝の天気を見て、かおるに何気なく言ったんだと思う」
「水でも同じだとしたら、どうなるの?」
お父さんは、5秒ほど、じっと考えていた、ように見える。
「もし、水が降っていたら、手っ取り早いから、スーツの裾からふくらはぎ辺りまで最初から水道の水で濡らして行こうと思った」
僕は、何か勘違いをしているのだろうか。何故か話が噛み合わない。お父さんへの質問を重ねる。
「なんで?お父さんも土砂降りだから濡れると思ったの?」
お父さんは、少し苦しそうに答えてくれた。
「お父さんも、朝、会社に行く前に、神社にお参りしてる。その土砂降りの朝は、濡れると思ったんだろうな」
「えっ、お父さんも神社にお参りしてるの?」
お父さんが神社にお参りしているのは、ありそうなことだと思った。でも、お父さんは僕もそうしていることは意外なようだ。でも、お互い、一体何をやってるんだろう、と、僕は可笑しくなった。似た者同士というよりは、同じ穴の狢、というのがぴったりする。
「会社の駅の近くの神社にお参りしてる」
お父さんは続けて話してくれた。
「かおるが神社にお参りしてると聞いて、何だか責任を感じる。結局、父親と似たようなことで悩んで、似たようなことをしてるんじゃないか、って思って」
僕は、お父さんの言うとおりのことも少しはあるけれども、お父さんが気にする程のこともないと思っている。
「お父さんのせいじゃない」
僕が一言そういうと、お父さんは、そうか、と言い、少し間を置いて、ありがとう、と言った。
お父さんは、古い木造の家のおばあちゃんのことについては、ごく簡単にコメントしてくれた。
「その家の前をたまに通ってあげたら?声をかけられたらまたご用を聞いてあげてよ」
ただ、それだけだった。
けれども、そのおばあちゃんのことを不気味だとか嫌な感じだとか思っている様子が全く感じられない。それどころか、ごく当たり前のことのようにお父さんは反応している。
さつきちゃんが、お父さんがこういう感覚が分かると言っていたのは、本当だった。
「あんたたち・・・」
間に割り込んできたのはお母さんだった。なんだか、とても怒っているように見える。
お母さんは、僕に対して腹を立てているのか、お父さんに対して腹を立てているのか。‘あんたたち’と言ったのだから、両方なのだろう。
「・・・わたしは、本当に、疲れた」
お母さんの、右目の眼尻にじわっと涙が浸透しているように見える。そこからは、お母さんが一方的に話す時間になった。それも言葉少なに、けれども、激しさを持って。
僕は、お母さんのこういう姿を見るのは、おばあちゃんが亡くなってしばらくの間、気が張り詰めていた時の蒼白な顔を見て以来だ。
「おとうさん」
お母さんは、少し声が震えている。怒りなのか、悲しみなのか、苦しみなのか、それらすべてなのか。お父さんと僕は、ただ聞いているだけだった。
「かおるまで・・・・・」
どういうことなのだろう。自分が悪いとはっきり言われている訳だけれども、なぜかお母さんの話の続きが早く聞きたい。
「うちのおばあちゃんが亡くなってから、お父さんが病気になって・・・
そのうちに、わたしも年を取って・・・
お父さんが好きで病気になったんじゃないこともよく分かってるけれども・・・
でも、つらい」
お父さんは、金縛りにあったように背中を少し猫背にして台所の床に目を落とし、その態勢で固まったままでいた。
僕は、お母さんの顔を見ることはできなかった。普段も話をする時にまじまじとお母さんの顔を見つめることはない。今は、顔を反らす訳ではないけれども、お母さんと視線を合わせることが、やってはいけないかのような暗示に、僕はかかっていた。
「お父さんも、かおるも、もう、おかしな挙動はやめて」
そう言うと、お母さんは、台所から出て行った。
一瞬前まで夕ご飯の支度をしていた気配の残る台所に2人取り残されたお父さんと僕は、間抜けな悪人そのものだった。けれども、お父さんは、それでも責務を感じてか、僕に話しかけた。
「お母さんには」
お父さんはさっきからの姿勢は崩さずに、声だけで僕に話しかける。
「嫌な思いをさせた。
‘もう嫌だ’、って、思っていたはず。兄ちゃんやかおるにも言っていないけれども、おばあちゃんが亡くなった時のことから始まって、お父さんの病気のこととか、色んなことで・・・結局、お父さんが負担をかけた。
だから・・・」
そこで、お父さんの言葉は途切れた。5秒、10秒、時間が過ぎる。
僕は、耐え切れなくなった。
「お父さん」
お父さんは、そこで、やっと固まっていた姿勢を和らげ、僕の顔に視線を向けた。
「僕、また、そのおばあちゃんの家の前を通ってみるよ」




