第56話 夏の終わりから秋の始まりにかけて(その10)
秋季大会まで、あと一週間。僕たちは本業である勉強が終わった後、暗くなる手前まで、グラウンドの砂場で跳躍を繰り返した。
ここ数カ月間、白井市のマラソン大会のために走り込んだことが、跳躍の役に立っていることを感じる。各段に跳躍の距離が伸びた訳ではないけれども、今までよりも、楽に一連の動きができるようになったと感じる。先輩方も僕の助走から踏切、着地までの様子を見て、
「バタバタしなくなった」と言ってくれた。
先輩方の跳躍を見ても、マラソン大会の効果が僕の目からでも分かる。
もちろん、カールルイスのような美しいフォームになった訳ではないけれども、そのフォームを見ていると、心がカールルイスに近づいたのではないか、とそんな風に想像できるような姿だ。
ちなみに、マラソン大会の公式記録一覧が後日届いていた。事前に、個人名を公表する旨同意していたので、僕の名前も掲載されていた。
10kmランナー1,250人中、353位。当日確認したタイムにも自分では驚いていたけれども、成人男性も参加したこの大会で、僕としては出来過ぎの結果だと思った。正直、陸上部のくせに、走ることそのものとは正面切って取り組んでこなかった自分としては、びっくりしている。
しかし、5kmの記録一覧を見て、僕は更に驚愕した。
5kmランナー885人中、さつきちゃんが、22位だったのだ。
僕は、さすがに、えっ!と、自分の部屋で思わず声を出してしまった。
確かに、5kmは、比較的低年齢層や女子が多い傾向にはあるけれども、例えば、都道府県対抗駅伝の短い距離を任される女子中学生選手のような現役バリバリのランナーも混じっているはずなのだ。そんな中で、現在特に運動部に所属している訳でもないさつきちゃんが22位というのは、凄いを通り越して、異常だと思う。
僕は次の日、さつきちゃんに、凄いね、と言ってあげたら、さつきちゃんは本当に顔を真っ赤にして、何度も、ううん、ううん、と首を振り、消えるような小さな声で、
「たまたま、あの日は調子がよかったから」と言うだけだった。
陸上部長距離チームの女子1年生からも、
「小田くん、やっぱりあの子、陸上部に勧誘できないの?」と何度も訊かれた。
練習が終わり、帰ろうとしていると、ちょうどバレー部も部室から何人か出てくるところだった。太一が一年生部員何人かと話しながら出てきた。太一は僕を見つけると、バレー部員に、じゃあ、と声をかけて、僕の方に走ってきた。2人で並んで帰り道を歩き始める。
毎日顔を合わせているけれども、2人で話をする時には、無限に話題が出てくるような、そんな感じがする。学校の授業の話、部活の話、昨日のテレビの話、本の話、音楽の話。
これは、小学校の時から変わらないことだ。
2人のどちらかが一方的に話題を振る、という訳でもなく、何となく均等に話題が行き来する。僕はこれまでに何度太一に助けられたか分からない。僕が、小学校の頃から、休まずに学校というものに通えたのは、かなりの部分が太一のお蔭だと思う。これに関しては、一方的に僕が太一に助けられてきた、という自覚がある。太一は決してそんな風に思っていないし、僕に対し、本当に自然にニュートラルに接してくれる。多分、太一は誰に対してもそうなんだろうとは思うけれども、僕にしてみれば、これは小学校の、いじめが吹き荒れていたあの最中においては、世界が変わるほどの感覚だった。
僕をかばうことで、太一も攻撃に晒されそうになったことは何度もあった。しかし、太一は、そういうことを本気でまったく意に介さなかった。そういう、本当の意味で堂々とした人間を目の前にすると、姑息で卑怯な人間は、所在が無くなってしまったのではないだろうか。僕は、もう、7、8年太一と付き合っているが、なぜか、今日のこの瞬間に、つい、太一に訊きたくなった。そして、本当に訊いてしまった。
太一は、本当に淡々と僕の質問に答えてくれた。
「僕は、別にかおるちゃんへの思いやりや友情だけで庇った訳じゃないよ。変な感覚かもしれないけれど、‘どうなっても、構わない’っていう気持ちが常にあったなあ、って思う」
「どうなっても、構わない・・・?」
太一は少し、ほほ笑んでから、口調はあくまでも真面目に続けた。
「おかしいかも知れないけれど、‘どうせ、こいつらも年取って死ぬんだ’、って思ったら、じゃあ、別に自分も、かおるちゃんを庇うことで困ったことになっても、別に構わないかな、って」
「やけくそ、ってこと?」
太一はちょっと困った顔になり、更に続けた。
「やけくそとも言えるのかな。でもできれば、上手く解決するに越したことはないと思ってたから、やけくそ、っていうのもちょっと違うかな」
太一はそこから、うーんうーん、と考えて、ようやく言葉が出てきた。
「かおるちゃんと、運命共同体で構わない、ってことだったかも。どうせ、かおるちゃんに一度助けられた命だしね」
「え、何か助けたっけ?」
太一は、え、忘れたの?、と言ってから再び話し出した。
「僕が小学校4年生の途中で転校してきてから2、3日経った日、久木田たちが僕を取り囲んで、僕を新たな‘生贄’にする、みたいなことを言い出したんだよね。
その時、なぜか、その場にかおるちゃんがひょっ、とやって来て、すぐに久木田たちの関心がかおるちゃんをいたぶることに移ったんだ」
「そんなこと、あったっけ・・・でも、多分、本当に偶然僕がその場にやって来ただけで、太一を助けようとかして行った訳じゃなかったと思うよ」
「それでもよかったんだ」
太一の言葉に、僕は不可解な顔で太一を見つめていたのだろう。太一は真面目な顔をして、続けた。
「何にせよ、かおるちゃんのお蔭で、僕は助かったから。じゃあ、別に、いいかな、って感じ。どうせ生贄になるかもしれないところだったんだから、たてついて、また取り囲まれて、生贄になるならなるで、別にどうなっても、構わないな、って、そんな感じ」
「・・・ありがとね」
僕は、一言そう言った。やはり、僕が太一にありがとうなんだと思ったので。
「それと、久木田、バイクで事故ったんだね」
「え、そうなの?」
太一の言葉に不意打ちを喰らった。
「夏休みに、あすこの山の下り坂で自損。足首を骨折だって」
「誰から聞いたの?」
「うちの母親から。幸恵(太一の妹。中学1年生)のPTAの集まりの時に、お母さん方で話題になったんだって。暴走族、って訳じゃないらしいけど、先輩から色々強制されて、久木田も大変みたいだよ」
「それも、何か嫌だな」
僕は、別に久木田が可哀想とかは全く思わないけれども、その‘先輩’には嫌悪感を抱く。きっと、僕の陸上部の先輩方とは全く違う人間たちなのだろう。
僕たちはその後、しばらく口数少なく、もう暗くなった道を歩いて行った。




