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月影浴1 おつきさま  作者: @naka-motoo
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第55話 夏の終わりから秋の始まりにかけて(その9)

 帰りの電車は空いていたので、僕とさつきちゃんは、並んで座れた。ぼんやりと窓の外を眺め、今日はなんだか盛りだくさんだったな、と思う。さつきちゃんは電車に乗ってからしばらくは俯いて、黙っていたが、不意に話しかけてきた。

「かおるくん、ありがとう」

 え、何が?と僕は聞き返した。

「だって、今日、マラソンに出られたのは、かおるくんが声をかけてくれたお蔭だから」

 僕は、そんなことないよ、と、さつきちゃんに笑い返す。

「僕の方こそ、自主トレを続けられたのは、さつきちゃんのお蔭って、思ってるよ」

さつきちゃんは、にこにこして、自分の手の平をぎゅっと、ストレッチするような仕草をしながら話し続ける。

「やっぱり、かおるくんのお蔭。今日は、本当に、青春を謳歌できた、って感じがする」

 僕は、もう一度、さつきちゃんに笑いかけた。でも、そういえば、気にかかることがあった。

「さつきちゃんは、帰ったら、今日も晩御飯の準備をするの?」

 さつきちゃんは、一瞬、え?というような顔をしたけれども、すぐに、いつもの顔に戻った。

「うん、今日もするよ」

「・・・疲れたから、パスしたい、とか、そういうことってないの?」

 さつきちゃんは、僕の方に顔を向けて、下から僕の顔を見上げるようにして、答える。

「ほんとに疲れた時はそうだけど、5kmならまだ大丈夫。それに、お母さんいわく、主婦には休みは無いって」

「そっか、さつきちゃんは、主婦なんだ!」

 さつきちゃんは、嬉しそうに笑う。

「本業は、学生だけれども。でも、最近、献立も大分とわたしに任せてくれるから、楽しいよ」

 そっか、と、僕は、頷く。自分は、ここまで親を助けているだろうか、と振り返ると、もちろん、ほぼ何もしていないに等しいことに改めて気付かされる。

「かおるくんは、明日から、本業の走り幅跳びに専念?」

 僕は、うん、と返事をする。そして、付け加える。

「本業は、実は、学生で勉強なんだけどね」

 さつきちゃんは、僕に何だか言いたいことがあるような口ぶりで更に話を続けた。

「かおるくんって、数学は得意?」

「いや、すごい苦手」

 そっか、と、さつきちゃんは電車の床を見つめている。

 どうして?と僕が聞くと、更に続けた。

「わたし、結構、数学で苦戦してて。夏休みの課題もなんとか終わらせはしたけど、分からないところがかなりあって。もちろん、100%分かれば一番いいんだろうけど、せめて、もうちょっと理解が深められないかな、って、思って」

 ちょっと、意外だった。実は、数学で困っている、っていうのは、自分の専売特許のような気がしていたので、さつきちゃんも似たような感覚を持っていることが少し嬉しい気もする。

「塾でも行った方がいいのかな」

「そっか。かおるくんにはそういう選択肢もあるんだね。でも、わたしはちょっと塾は無理かな」

 家事をこなすために部活に入っていないわけだから、部活が塾に置き換わるというのは、事実、無理だろうと思う。

「ごめん」

 と僕がすぐに言うと、ううん、かおるくんが謝ることないよ、と、首と手を、少しオーバーアクション気味に振ってくれた。

 僕は、何かいい知恵がないかと、必死で頭を振り絞る。

「家事や部活の時間も確保できて、普段の勉強時間の他に、数学をなんとかする時間も確保して・・・」

 僕は、右のこめかみを、親指でマッサージした。意味もなく目をつぶり、こうすれば思考が深くなるかのように、または、思考が深まらない分、気分的に一生懸命考えているような雰囲気を醸し出せるように、ぎゅーっと目をつぶる。

「日曜日か・・・」

「え?日曜日?」

 僕のつぶやきに、さつきちゃんは素直に反復で反応してくれる。多分、さつきちゃんにとっても、数学問題は切実なのだろう。

「さつきちゃん、園田先生とは話したことある?」

「2年生の担任の数学の先生だよね?ううん、話したことないけど」

「バレーボール部の顧問の先生なんだけど。太一に聞いたんだけど、バレー部は、バスケ部との体育館使用の兼ね合いで、月2回、日曜日に練習するんだって。その時に園田先生も学校に出てくるんだけど、キャプテン中心にどんどん練習を進めるから、先生は特に練習を見てる必要もないんだって」

 うん、うん、とさつきちゃんは、目が結構真剣だ。

「だから園田先生は、職員室で、普段たまってる事務仕事をしてるらしい」

 うん、と、さつきちゃんは先を急ぎたそうだ。

「それで、バレー部の部員は、練習が終わった後、職員室に行って、結構数学の質問をしたりしてるらしい」

 ふーむ、と、なんだかさつきちゃんの反応が、段々コミカルになってきたような気がする。

「太一のつてを頼って、バレー部の練習時間中に、園田先生に数学の質問、してみようか」

 さつきちゃんは、ちょっと考えているようだ。

「そうすると、園田先生のせっかくの事務処理時間にお邪魔するから、できるだけ、簡潔に、効率よく質問しないといけないね」

 僕は、そうだね、とうなづく。

「もちろん、結局は自分で勉強するしかないんだけど、僕はそもそも、数学の先生に対しても何か変なコンプレックスを持っているようなところがあって。数学の先生から見たら、生徒は二種類しかいないんじゃないか、っていう。数学のできる生徒とできない生徒、っていう。しかも、数学の先生は、その生徒の顔を見ただけでそれを見抜く力があって、ああ、こいつは駄目だ、みたいな失望を見せる、っていう感じで。」

 さつきちゃんは、くすくす笑い、分かるよ、と同意してくれた。

「だから、とにかく、数学の先生と仲良くなる、っていうだけで、相当な進歩のような気がする」

 さつきちゃんの顔が、ぱっ、と明るくなっているのが分かる。実は、数学を敵だ、と思っている生徒は、想像以上に大勢いて、陰の一大勢力をなしているのではないか、という、淡い期待さえ持ってしまう。

「自分の都合ばかり言ってしまうけれど、日曜日ならば、家事のやりくりも付きやすいからすごく助かる」

 それを聞いて、さつきちゃんは、自分の都合ばかり言ってないよ、むしろ、その逆だよ、と言ってあげたくなる。

 とにかく、僕は、さつきちゃんとの関係は、惚れた腫れたの浮いた関係とは正反対のものに、意識的に持っていかないと、自分でも心配なのだ。さつきちゃんのお母さんは、優しくて柔らかい人だけれども、ちょっとでも、僕たちが浮ついた関係になれば、「もう、小田くんとは話しちゃだめ」と、本気で言うような、そんな厳しさも持っている。

「太一に一度、話してみるよ」

 そうこう言っている内に、電車は駅に着いた。ホームの階段を上がり、僕は南口、さつきちゃんは北口へと向かう。別れ際、

「今日は、本当にありがとう」

とさつきちゃんが言ってくれた。僕は、じゃあ、また明日ね、と返事して、南口の改札に向かって歩き出した。


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