第39話 8月へ(その5)
僕と太一は、かなり緊張していた。女子3人組プラスさつきちゃんのおばあちゃんとお母さん、計5人の女性の中に男2人で招待されたという緊張ばかりではない。みんなでこれから夕食を囲もうというそのテーブルに、僕たち2人の他に、もう1人、男が座っているのが、緊張の上に更に緊張を上乗せしている理由だ。
最初、玄関で出迎えてくれたさつきちゃんに「これ、つまらないものだけど」と、決まり文句を言ってお土産を渡し、「わあ、ありがとう」という、これまた決まり文句のやり取りをしてから、さ、どうぞどうぞ、とさつきちゃんに、奥の台所へと招き入れられた。
さあ、これから、さつきちゃんのおばあちゃんとお母さん、それと遠藤さん脇坂さんに、挨拶をしなきゃ、とやや気合いを入れた僕と太一の視界に、Tシャツとジャージ姿の男子が1人、その中に混じっているのを見て、一瞬体がこわばるのが自分でもはっきりと分かった。
誰だろう誰だろうとは思うが、とにかく、おばあちゃんとお母さんに、まずは、「今日はありがとうございます、お邪魔します」と挨拶し、次に、遠藤さん脇坂さんに、こんちは、と笑顔で会釈した。その時に、さつきちゃんが、これ、お土産にいただいたよ、と、海月堂の月の里の箱を披露すると、お母さんのお礼の言葉をいただき、おばあちゃんもありがとう、という感じで笑いかけてくれ、2人の女子も、わーすごい、という感じで反応してくれた。
さて、残った1人の男子。顔は若く見えるが、身長は僕や太一よりほんの少し低い程度、髪の毛は短めではあるが、さらりと自然な感じ、とにかくそこに、ただ黙って立っていた。ちなみに、太一も僕も、身長はクラスの男子の中ではど真ん中の位置だ。太一はもとの身長のまま、僕は、入学以降、3cm身長が伸びてのど真ん中になった。
どうするもないので、とにかく、僕はその男子に向かって、こんにちは、と声をかけた。
相手もようやく口を開き、こんにちは、と返してくれた。よく見ると、相手も緊張しているようだ。
「あ、ごめんね。弟の耕太郎。小学校5年生」と、さつきちゃん。
「え、5年生なの?」と太一。
たしかに、身長は高校生並で、小柄なさつきちゃんをはるかに越しているので、なんだか姉弟という印象を与えないが、さっき、‘こんにちは’と返してくれた時の声は、まだ声変わりしていない、小学生の可愛らしい声ではあった。
「大きいでしょう。背ばかり伸びたけど、お姉ちゃん子で、いつもさつきに甘えてるのよ」
お母さんの解説が入る。
いや、そんなことないんだけど、と独り言っぽい感じぼそぼそ言って、耕太郎は恥ずかしそうに俯いていた。あ、やっぱり小学生だな、と、僕はちょっとは緊張が緩んだが、70%ほどに緩んだだけで、やはり、どのように接すればよいのか、測りかねている。
夕食会のメニューは、非常にオーソドックスな、というよりは、家庭の食卓の王道、といった品ばかりだった。胡瓜とワカメと白魚の酢の物、茄子とそうめんの味噌汁、それに、鰹のたたき等。鰹のたたきは、皆が遠慮しないよう、一人ひとりの皿に分けて出された。にんにくの薄切りに大葉の細切りと細かく刻んだ葱が振りかけられ、好みに応じてポン酢・レモン汁・醤油をかけて食べる、という形になっている。テーブルの真ん中にはよく冷えたトマトとレタスとグリーンアスパラが盛られている。脇坂さんによると、それにかけるドレッシングも女子3人で作ったのだそうだ。
「ひなちゃん(日向さんなので、‘ひなちゃん’と、3人の間では呼ばれている。これはこれで可愛い呼び方だな、と自分のことのように嬉しい)のお母さんが、全部指導してくれたんだよ」と、脇坂さんはお母さんに敬意を払った。
お母さんは、ちょっと恥ずかしそうに、にこにこしながら、次のように答えた。
「指導だなんて。恥ずかしくて。でも、この鰹のたたきの作り方は、おばあちゃんに教えてもらったのよ。わたしがお嫁に来たばっかりの時のことだけど」
みんな、へー、と、今度はおばあちゃんの方を見て、感心する。
「おばあちゃんは、今でも料理を作られてるんですか?」
僕は何気なくおばあちゃんに聞いてみた。
「もう随分前から、さなえさん(さつきちゃんのお母さんの名前)に任せてますよ。今風の若い人向けの料理は作れないし」
おばあちゃんの後に、今度はさつきちゃんが補足する。
「うちのおばあちゃんは、大学の家政学科を卒業した、本格派だよ」
えー、すごい、とみんな本気で感歎の声をあげた。
「わたしの実家は料理屋だったからね。まだ、女が大学へ行くような時代でもなかったんだけれど。少しは家に余裕があったから親は大学に行かせておこうか、と思ったのかね」
と、おばあちゃんは語ってくれた。
「じゃあ、お母さんは、おばあちゃんに料理で鍛えられたんですね」
遠藤さんが、聞くと、お母さんは、
「料理だけじゃなくて、家のこと全部ね」
と、にこっとして答えてくれた。
後片付けは僕と太一も手伝った。食器洗いだ。太一が洗剤・僕が水洗いの分担で作業を進めた。さつきちゃんが、耕太郎に食器拭きをするように言いつけ、耕太郎は僕と太一の隣に来て、洗った食器を、ふきんで拭き始めた。
耕太郎は僕に、これ、もう拭いてもいいですか、と聞いてくる。僕は、うん、いいよ、と答える。背丈は大きいけれども、弟というのは可愛いもんかもしれないな、となんだか安心してきた。
女子3人は‘月の里’を開けたり、西瓜を切ったり、と、食後のお茶うけの準備をしている。女子3人と僕たちは、おばあちゃんとお母さんは座っててください、と無理にお願いしてテーブルで待っていて貰った。おばあちゃんとお母さんは、何だかかえって申し訳ないね、という感じだったが、今日の夕食会の趣旨からは自然な流れだろう。
後片付けとお茶うけの準備ができると、もう一度みんなでテーブルを囲み、月の里と西瓜を頂いた。
脇坂さんが、何とはなしに、さつきちゃんのおばあちゃんとお母さんに聞き始めた。
「今日は、男子2人がいますけど、男の子が夕食会に混じったり、花火を一緒に見に行ったりって、女の子を持つ家庭として、抵抗なかったですか?もちろん、日野くんも小田くんも真面目だし、わたしたちそんな変な目でお互いを見たりすることもないんですけど」
脇坂さんの話を聞いて、さつきちゃんのお母さんはちょっと真面目な顔をして、それに答えた。
「もちろん、女の子が家にいると、心配よ。でも、男の人と全く接しないのも変でしょ。だったら、自然に、ごく普通に、我が家はこんな感じですよ、あなたの家はどんな感じですか、あなたはどんな人なんですか、っていうのをちゃんと節度をもってやり取りした方が、かえって、さつきや脇坂さんたちくらいの年の女の子にはいいことなんじゃないかな、って思って」
「男と女がおらんと跡継ぎは生まれんしね」
おばあちゃんの言葉にちょっとびっくりしたが、さつきちゃんのお母さんがその後の話を続けてくれた。
「わたしは嫁に来て、お父さん(さつきちゃんのお父さんのこと)とこの家を継いだけれど、最初はやっぱり、嫌だったね。自分が生まれ育ったのとは全然違う家だし、おばあちゃんとの関係も最初からこんな感じじゃなかったし。嫁姑っていうのは、やっぱり色々あるし」
僕は、自分の小田家で、おばあちゃんがまだ生きていた時のことを思い出し、そういえばそうだったかも、と納得していた。さつきちゃんのお母さんの話はまだ続いた。
「家を継ぐっていうことがどんなことなのか、よく分からなかったけど、日向の家の親戚は結構いっぱいいたし、大変かな、って感じだったね」
みんな、さつきちゃんのお母さんの話をじっと聞いている。特に遠藤さんと脇坂さんは、真剣に聞いているようだ。
「でも、日向の家の先祖さんたちが、‘家を継ぐ’ってバトンタッチしながら続けてきてくれたから、なんだかんだ言って、さつきも耕太郎もこうして生まれてるんだし。やっぱり、不思議ね」
僕は、あの土砂降りの日に、「日向さんが、好きだ」と、咄嗟の言葉だったかもしれないが、すごく真剣な気持ちで言ったつもりでいた。でも、今のさつきちゃんのお母さんの話を聞くと、何だかそれをたしなめられているようで、僕には、まだまだ人間としての‘重厚さ’が無いんだと認めざるを得なかった。次に続いた、おばあちゃんの話は、難しい言葉は一つも使ってないけれども、世界の見方すら変わるような話だったのではないかな、と思う。
「惚れた腫れただけでは結婚は難しいですよ。大体、さなえさんにしたって、旦那というよりはまるで姑と結婚したみたいだ、騙された、くらいに思ったろうから。わたしと一緒の時間の方が、一生の内で旦那よりも子供よりも一番長いんだから。子供だって、‘惚れたあの人の子供だから’なんてもんじゃとても育てきれないですよ。さつきも耕太郎も‘日向家’の大事な子孫で、次にわたしの孫で、そのまた次になってようやく父親と母親の子供なんだから。‘わが子’なんていうけれど、‘可愛い自分の子だから’なんていう気持ちだけでやってると、いい子には育たんですよ」
今日の夕食会は、さつきちゃんのお母さんの提案で、男である僕と太一も招かれた、と、さつきちゃんからは聞いていた。
ああ、なるほど、と僕はさつきちゃんのおばあちゃんとお母さん、いや、日向家の女の人が、代々どういう生き方をしてきたのか、そして、これからしていくのかというのが理解できたような気がした。
おそらく、さつきちゃんのお母さんは、日向の家はこういう家ですよ、さつきはこういう風に育ててますよ、さて、さつきも含め、高校生の男女のあなた方はどういう人間ですか?どういう生き方してますか?男と女というものを真面目に真剣に考えていますか?自分の家の先祖のことを考えたことがありますか?そもそも、自分が誰のおかげでこの世に出てきたか分かってますか?自分の好きなお父さんお母さんが惚れあったからだという程度に思ってたら大間違いだと思いませんか?、と問いかけ、あるいは、宣言するためにこの夕食会を企画したのではないだろうか。そんな風に思わせるくらい、おばあちゃんもお母さんも、女の中の女、という凄さを、たった2時間弱の会食の間に、高校生、そして、1人の小学生も混じった僕たち全員に見せつけた。そんな風に感じるしかなかったくらい、衝撃だった。




