第29話 スピードをつける(その5)
週明けの月曜日、僕は相談すべきかどうか、迷っていた。相談されても困るだろうし、なんて優柔不断な奴だと思われるのも何となく嫌だし。だけれども、話をするきっかけになるだろうから、思い切って相談しようという方向に傾いていた。
僕とさつきちゃんが、お互いを下の名前で呼び合うようになったのが先月の6月のことだったが、実はそれ以降、それほどたくさん話をしたり、二人の接触が増えたわけではなかった。朝会えば、「かおるくん、おはよう」と言ってくれるし、にこにこ笑いかけてもくれるのだが、特に用事が無いときにまで二人で話し込んだりということはまず無かった。
当然と言えば当然のことなのかもしれない。恋人でもなんでもないのだから。ただ、「かおるくん」「さつきちゃん」と日常会話をする時の枕詞のように声を掛け合っているだけだといわれればそれまでだ。僕はそれでも満足だし、それ以上のことを望んだとしたら、さつきちゃんのお母さんが「学生なんだから、好きとか嫌いとかいうのはもっと先の話」という考えからもずれてしまう。それはさつきちゃんの本意でもないし、僕自身も単純な恋愛感情で区切られるような関係はむしろ不本意に思う。
でも、それにしても、これではクラスメートだというだけであって、さつきちゃんが言っていた、「恋人とか友達とかいうのとも違う、特別な関係」でもないような気がするのだ。
それがちょっと寂しい、というだけのことなのだけれども。
授業と授業の間の10分の休み時間では色々と話ができないので、午前で授業が終わった後、部活が始まるまでの弁当の時間に思い切って話してみようと思った。
さつきちゃんは部活に入っていないので、本来、夏休み前のこの時期には、午前中で授業が終わった後帰宅するのだが、今日は秋にある体育祭の委員会があるので学校に残ることを知っていた。
いつも僕は、午後からバレーボール部の練習がある太一と一緒に弁当を食べているのだが、今日は、太一には遠慮してもらうつもりだ。
午前中の授業が終わったあと、僕は、さつきちゃんに声をかけた。
「あの・・・」と切り出すと、さつきちゃんは、そうじゃないでしょ、というちょっと悪戯っぽい怒ったような顔をして見せて、すぐに笑顔になった。僕に、ちゃんと、名前で呼べという合図だと分かった。
「さつきちゃん、ちょっと相談があるんだけど」
「相談?わたしで役に立つかな・・・」
「ちょっと色々と説明が必要なんだけど」
相談には少し時間がかかることを、僕は暗に言った。
「じゃあ、一緒にお弁当食べながら話そ?かおるくんはお昼から練習でしょ」
「うん、そうしようか」
僕はさつきちゃんの席の付近から自席に戻り、弁当を出そうとした。すると、さつきちゃんは自分の弁当袋を手に、僕の席の方に来て空いている椅子を引き、僕の机の向かい側に座った。ちょっと、大胆な感じもしたし、周囲の人目も気になるが、さつきちゃんは一向に構わない様子で、お弁当の袋を開き始め、また僕に向かってにこにこしている。
実際、周囲にはあまり人はいなかったが、それでも2~3人で固まっていた男子は、おっ?という感じで見ていく。僕はできるだけ弁当のおかずを見るようにして話し始めた。
僕が相談したのはつまり、白井市のマラソンに出るべきかどうかということだ。こんなこと相談するまでもなく自分で決めればいいことなのだろうけれども、僕という人間が、マラソンを走ろうと考える人間なのだということを知って欲しいという、厭らしい気持ちがあったのだ。けれども、さつきちゃんは、僕のそんな厭な心根を特に気にもかけない様子だった。
僕は、先週末の陸上部のミーティングの話をして、フル、ハーフ、10km、5kmへの参加の可能性を示した。僕はフルへの憧れがあるけれども、自分が小学生の頃から、いわゆる「走る」ということそのものではなく、「立ち幅跳び」の延長線上に自分の陸上競技生活がある旨を説明した。そして、今、それぞれへの参加・不参加を決めかねていることを説明した。
「んー、確かに難しい選択だね」
さつきちゃんはあくまでも僕の優柔不断な相談に付き合ってくれるようだ。
「わたしでも多分迷うと思う。かおるくんは一番長い距離を走ったのはどのくらい?」
僕はさつきちゃんの問いに、小学校以来のかけっこから校内マラソン大会まで、色々と思い出してみた。
「中学校の時の校内マラソンが7~8kmで、それが一番長いと思う」
「結構長いね。わたしの中学はマラソン大会が無かったから、小学校の時のマラソン大会1kmが一番長いかも」
なんだか、とてもかわいらしい話のように思える。さつきちゃんはまだ話し続けた。
「中学の体育の中距離走が女子は800mだし。男子は1,500mだったけど。部活の練習では何kmも走ったけど、距離もタイムも図ったわけじゃないし」
部活?僕はさつきちゃんと運動部がどうしても結びつかないような気がして、さつきちゃんの部活の話を聞きたいと思ったが、さつきちゃんは更に話し続ける。
「かおるくんは幅跳びの選手だから、それを基準に考えたらいいと思う」
僕はだんだんと考えがまとまってきた。今度は僕の方からさつきちゃんに話していく。
「マラソン大会の後に秋季大会があるから、幅跳びの状態を最高潮にもっていくとしたら、長い距離で足へのダメージを残すのは避けようと思う」
さつきちゃんは、うん、うんと真剣に聞いている。
「とすると、ハーフか10kmか。未知の距離に挑戦したい気持ちはあるけれども、僕は、今、陸上競技者としての課題にぶつかってる」
「課題?」
さつきちゃんが実に話しやすい合いの手をいれてくれる。
「うん。ぼくはもう少し、スピードをつけたい」
さつきちゃんは、更に合いの手を入れ続けてくれる。
「それは、走り幅跳びにも必要?」
「うん。走り幅跳びの選手は短距離の選手のように、やっぱりスピードが求められるんだ。助走はもちろん、スピード感がとても大事」
さつきちゃんは、徐々に僕の話が陸上談義になりつつあるのを真面目な顔で聞いてくれている。
僕は演説のようにしゃべるのは自分以外の人間がやること思っていたが、さつきちゃんが一々真剣に聞いてくれるので、ものすごく気分よく演説調でしゃべり続けていた。
「だから、10kmを駆け抜ける、という挑戦をしてみるよ。自分は今まで、走るということとあまり面と向かって付き合って来なかったなあ、としみじみ思う。だから、10kmで自分なりにタイムにこだわってみるよ」
さつきちゃんは、拍手しかねないような笑顔をしている。もしさつきちゃんが拍手をしそうになったら、僕は止めなくてはならないと本気で考えた。
「私も走ろうかな・・・」
僕は、声には出さないが、えっ、という顔をあからさまにした。そんな僕の顔を見て、今度はさつきちゃんが演説口調で話しはじめそうな気配が感じられた。
「わたし、一応、中学の時、ソフトボール部だったんだよ。わたし、顔、黒いでしょ?」
僕は、遠慮がちにちょっと日焼けしたような感じかな、と言った。
「わたし、中学3年の夏に引退する前は、本当にもっと真っ黒だったんだよ。引退後に半年、高校に入ってから3か月で大分日焼けがあせたんだけど」
僕は、さつきちゃんに恐る恐る聞いてみた。
「さつきちゃんて、もしかして走るの速かった?」
実際、陸上部員よりもサッカー部員や野球部員の方が長距離走が速い例をいくらも見てきた。鷹井高校でも長距離が一番速いのは二年陸上部の長距離エース、早水さんだが、二番手は野球部のエースナンバーをつけたピッチャーだというのが、生徒たちの一致した意見だった。
「ううん、同じ部で私より速い人が2人いたから、特に速くはないよ」
ソフトボール部で1、2位の速い人は全部活動の中でも相当速いということは想像できる。要約すると、さつきちゃんはソフトボール部で3番目に速く、運動部員全員の中でも上位だろうということだ。
「そっか、うちの高校にはソフトボール部が無いからさつきちゃんは部活入ってないんだ」
僕の何気ない言葉に、さつきちゃんが顔を少し歪めた。
「・・・ううん、ソフトボールは団体競技でしょ。みんなで一緒にやっていると色んなこともあったから、高校では一旦部活は離れてみようかなって」
「・・・ごめん、聞かない方がよかったね」
けれども、すぐにさつきちゃんは、にこっとした顔に戻る。
「ううん、違う、そんな、思い出したくないようなことでもないよ。それに、わたしが帰宅部なのは、家でお母さんの晩御飯の用意を手伝わなくちゃいけないから」
「さつきちゃん、晩御飯つくってるの?」
僕は大げさにではなく、きょうびの僕ら高校生の中に、まだそんな古風な人種が残っていることに本当に驚き、頭が下がる思いがすると同時に、さつきちゃんのことがクラスの中ですぐに気になった理由がなんとなく分かった。
「そうだね。さつきちゃんの活動を無理やり分類するとしたら、‘帰宅系家庭科部’だね」
僕がそうさつきちゃんのことを評すると、さつきちゃんは、ふふっ、と本当にうれしそうに笑った。笑顔というよりは、笑い顔だった。さつきちゃんは自分でまた、こんな風に付け足した。
「じゃあ、‘自主トレ系マラソン部’もやってみるね」
気が付くと、箸もおいたまま真正面に向かい合ったまま話していたので、二人とも弁当に手を付けていなかった。午後の部活・委員会開始まであと15分。2人して大急ぎで弁当を食べ始めた。
家に帰ってその夜、僕は10kmに、さつきちゃんは5kmに、ネットからエントリーした。




