1-1. MISSION: 隣の部屋を訪ねよ
土曜日、午前中。4月末から5月初頭にかけて、春の大型連休に向かっていく、その直前のこと。
まだ少しだけ眠気はあるそんな中、俺に課されたミッションがひとつあった。
とはいえ、ミッションと言うほどインポッシブルなモノではない。
その中身はただただシンプルだ。
――『隣の部屋を訪ねよ』
至極単純なモノだった。拍子抜けするほど単純だと言い切れる。
本当に良かった。飛行場へ行って飛び立つ小型機の翼にしがみ付いて目的地まで着いていけとか、綱1本を身体に括り付けてビルの上から下まで降りろとか、そういう荒唐無稽なモノじゃなくて本当に良かったと思う。
地域の中核を担う程度の規模感である駅からほど近いところにある高層マンション――の、残念ながら低層階、しかし角部屋。恵まれていないようで一応恵まれた環境。それが今の俺の根城だ。
高校生男子がひとりで住まうにはさすがに不相応かもしれない。ただ、進学先として選んだ学校が実家から遠かったため、長距離の電車通学とひとり暮らしの二者択一を両親から迫られた結果、俺はふたつ返事でひとり暮らしを選んだという流れがあった。
いわゆる中流階級よりも少し下くらいに位置する(と思いたいが、もう少し下層に居るかもしれない)我が家に、高校生男子をひとり暮らしさせるだけの余裕があるのか、しかもこんなほぼ新築の駅チカ物件に住まわせるだけの余裕があるのか――そんな疑問を持っていたので、正直今でも驚いている。
そんな状況下にいる俺は、何故かそんな根城の隣室に今から出向かなければならなかった。
「……それにしても、わざわざこんなことするかね」
デジタルでも充分伝わるモノを、何故かウチの家族はご丁寧に手紙を使ってきた。その内容を雑に言い切れば『隣の部屋を訪ねよ』ということだったのだが、その文面がまぁ面倒くさいことこの上なかった。
「なんでこんな、『不幸の手紙』みたいな文面にしたんだか」
手紙の書き出し――『隣の部屋を訪ねよ』の後には、『さもなくばキミに不幸がやってくるだろう』という文言が続いている。何が腹立つって、『だろう』の文字が微妙に震えていることだ。恐怖を演出するフォントで震え文字のようにしようという節が見えるが、これは絶対に違う。たしかに最初のうちはそうだっただろうが、だんだん笑いを堪えながら書いていて、結局耐えきれなくて失敗したということだろう。そうに決まっている。
そしてこんなことをするのは、恐らく母さんだろう。けらけらと笑いながらさぞかし楽しそうに文面を書いている姿が、あまりにも簡単に目に浮かんでくる。その隣には2歳下の妹もぴったりと座していて、近所の人たちからもそっくりだと言われるその笑みを並べていたことだろう。
あれだけの似た者親子も珍しい。母さんは母さんで若く見られたい病なので妹と並んだときに『ご姉妹ですか?』と呼ばれたいタイプだし、妹は妹でオトナに見られたい病なので今のところは母さんと並んだときに『ご姉妹ですか?』と呼ばれたいタイプだ。だからなのか、あのふたりはいつもべったりで、いつも面倒くさいことを仕掛けてくるのだ。
父さんは基本的にはふたりと正反対――要するに寡黙なので、今回の件についてはある程度静観しているような気もしている。単純に、下手に首を突っ込んだら自分も痛い目を見るから、という予想だが。
「……っと、ぐだぐだしてる暇はないか」
約束の時間は午前10時。いつの間にやらその3分前。
目的地はお隣さんなので、ここで何か大事件が起きない限り遅刻することはないだろうが、部屋を出る準備はもうしておいた方が良さそうだ。とくに荷物などはないが、鍵とスマホさえあればいいだろうか。念のため財布も持っておこう。
しかし――ちょっとだけ気になることはある。気になることというと少し大袈裟だろうか、飽くまでも思い出しただけという感じだ。
それは、今から向かう『隣の部屋』だ。
記憶を辿ってみる。誰かが越してきたらしいと俺が認知したのは今から1週間前くらいのこと。それまでしばらくは空室状態で、こんな駅チカ物件なのに空きがキープされるとは珍しい気がしていた。
それまで気が付かなかったのには、しっかりとした理由がある。
そもそも表札のようなモノが付けられてなくて、しかも新しい家主はミニマリストなのか、荷物の搬入などもいつの間にかひっそりと行われていて、いつの間にかひっそりと入居していた感覚。
それどころか、隣室からは生活音すら一切聞こえてこない。そもそもこのマンションの防音周りは優秀ではあるが、それにしても何かしらの音が聞こえてくるものだろう。部屋として所有はしているが実はここにはまだ住めないとか、何かしら世知辛さもあるような事情もあるのかもしれない。――投資するにしても、こんなに下層ではそこまでの価値も無かろう。知らんけど。
挙げ句イマドキというかあるいは常時忙しいのか、そのあたりの真意は知らないが、引っ越しの挨拶も直接ではなく葉書だった。これのおかげで『隣に誰かが引っ越してきた』という認識を得ることはできたのだが、肝心の隣人の顔については実は未だに解らずにいた。
そんな隣人さんのご尊顔を、これから拝見することになったわけで。
良いんだか悪いんだか。
「……ふう」
少しばかりの緊張感を浅めの深呼吸でどうにか緩めながら、意を決してインターフォンを押す。
数度の無機質な音。
そして――。
「はい、……はいっ」
女性の声だった。
――いや、どちらかというと女の子の声と表現するべきか。
一瞬ふたり居るのかとも思ったがどうも違うらしく、こういう言い方をしては失礼かもしれないが1度目の『はい』はいわゆる余所行き用の声を作る前段階のような雰囲気だった。
決して咳払いをしたくなるような声なんてことを口走りたいわけではない。1度目の声もかわいらしさがあるアルトボイスだったのだ。それが一転してメゾソプラノくらいになった。それだけのことだ。
「あ、えーっと。隣に住む桜森ですが……、そのー」
「はい、今お開け致しますね」
話は一応通っていたらしい。余計な説明を玄関前でさせられるようなことにならなくて一安心だ。
――だが。
それにしても、この声。
どこかで聞いたことがあるような――――無いような。
正直そこまで女子と話す機会に恵まれているわけではないので、脳内に女性ボイスのストックがないのだ。でもどことなく聞き覚えがあるような気もしてしまう不思議な感覚。
とりあえず、間もなくドアは開けられる。それを待っていれば、その答えは自ずと見えてくるはずで――。
「……あれ?」
「お待たせ致しました、怜史さん」
どこかで聞いたことがあるという感覚は、意外にも間違っていなかったことが発覚。
「ん? ……え? あれ? もしかして、……深見さん?」
「私のことはどうぞ柚寿希とお呼び付けください、怜史さん」
立ち話も何ですから、と俺を部屋の中へと招き入れる彼女は――。
かの有名な深見グループの令嬢にして、ウチの高校一の美形とも目されている同じクラスの女子生徒――深見柚寿希だった。
〇
「こちらへどうぞ」
少しだけブラウンが入ったショートボブを揺らす彼女に促されるまま歩を進める。部屋の構造は俺の部屋と同じなので、とくに問題も無く付いていくことはできる。
だが、当然俺の心中は穏やかなはずがない。きちんと自分の足が動いているような感覚もない。右手と右足が同時に前に出ているような感じか、あるいはもはや地に足が付いていないような感じはしていた。
「どうぞ、おかけになってください」
「……ども」
そのままリビングに通される。
愛想の悪い応え方になってしまったのではないか。でも、かといってわざわざ言い直すのもおかしい気がして、そのまま奨められるままふたり掛けのソファに座る。
失礼にならない程度に、視線だけで部屋を一通り。
家具類はいわゆるカワイイ系ではなく、シックな雰囲気で統一されている。濃いめのブラウンが基調でどこか落ち着けるところもあって、彼女の日頃の雰囲気にもマッチしていると思う。個人的にはかなり好みのデザインだった。――もちろん「何様だよ」という批判はお断りだ。
装いもまさにこの部屋の雰囲気にあっている、バニラなマキシ丈のワンピース。
それになにより、俺の部屋では嗅いだことの無いイイ匂いがしている。住んで日が浅いはずなのに、どうしてこうも差が付くのか。俺もアロマディフューザーとかいうヤツを置いてみた方が良いのだろうか。――いや、管理が適当になりそうだし、止めておこう。
「えーっと……それで、深見さん」
「柚寿希です」
「ぅ」
楚々とお茶を出してくれた彼女は、何故か断固として名前呼び以外を許してくれないスタンスらしい。
マジで理由がわからない。本当に、何故だ。兎にも角にも違和感だらけだ。
高校に入学して1ヶ月になろうとしているところ、彼女との面識は残念ながら無い。同じクラスの女子でそんなことがあるのかと思われるかもしれないが、なかなかどうしてそんなことはある。
そりゃそうだ。どうして俺のような平民が、さながら上級国民とも言えよう彼女にお近づきすることができようか。できるわけがないじゃないか、言ってて哀しくなってきたけど。
だって、深見グループのご令嬢だぞ。傲慢なオトナもひれ伏し、泣く子も大体黙ると噂される深見グループだぞ。そこのお嬢様なんだぞ。
そりゃあ、――ムリだろ。
それなのに、何故俺は、やんごとなきご令嬢から名前呼びを強要されるのか。これが全く解らなかった。
「深見さん」
「柚寿希です」
――ダメだ、ラチが開かねえ。
ここで折れるべきは、間違いなく俺だろう。
女子を名前呼びするなんて、俺の人生史上で一度もしたことないんだけど。
唇の乾きに今更ながら気付いてしまって、バレないように口元をちょっと隠してそ
れを潤して、さらにちょっとだけ深呼吸を混ぜ込んで――。
「……柚寿希さん」
「はいっ」
ああ、もう。
――どうして貴女は、そんなに嬉しそうな顔をするんですか。
高鳴る心音を隠しきれているのか全く自信はないが、そのまま質問をすることにした。
「その……すごく言いづらいんですけど、俺って柚寿希さんのことを名前呼びできるほどの関係じゃない気がするんですよね……」
「安心してください」
探るような言い方をする俺を勇気づけるような笑顔で、俺の向かいにあるもうひとつのソファに腰掛けながらさらに彼女は続ける。
「今日はその説明をさせていただくために、こちらに来ていただいた次第です」




