プロローグ 師として、そして親として②
王歴九九二年、八月二十八日の金曜日のこと。
「……しまったな。どのベーコンを買えばいいんだ」
と呟く俺ことアーネスト・マーベルは今夜の食事の材料を買いに近くの食料品店に足を運んでいた。
今日は長期で外国に遊びに行っているティアが家に帰ってくる日なのだ。
だから記念日ってわけではないものの、どうせならティアの好きなものを作ってやろうかな、と思ったわけだ。
その料理がカルボナーラ。
あいつは昔から相変わらず意味が分からないくらいにカルボナーラが好きなのだが、何故か俺が作ったものだけはあまり喜んでくれない。決して不味いというわけではないと思うのだけれど。
だからこれは俺にとってのリベンジという意味も含まれていたりする。
なのにだ。なのにだよ。
俺はティアの好きなベーコンの種類を忘れてしまっていたのだ。忘れてしまった場合の対策としてメモをしている手帳があるのだけれど、今日に限ってそれを家に置いてきてしまっていた。
「しまったな。どれでもいいっちゃいいんだが、どうせなら完璧を求めたいからなぁ……」
たとえ自己満足だったとしても、やはりこれは譲れない。今日こそは俺の料理であいつを満面の笑みにさせてやるんだ。
そんな心の中で気合を入れる俺の頭の中には二種類のベーコンが対立をしていた。
パンチェッタとグアンチャーレ。その二つがバチバチと火花を散らせる。
ああ畜生、どっちだ。わかんねーよ。俺はどっちを選べばいいんだ、と心の中で溜め息をつく。
お肉のコーナーまでものの数分で到着する。この先の突きあたりを曲がればそこは戦場だ。
そんな途中から訳の分からない思考に至ってしまった時だった。
「あ! ティアのおじさんじゃん」
と俺に向かって掛けられる聞き覚えのある女の子の声。
「……え?」
声の方に振り向くと、そこには薄いピンク髪の女の子が立っていた。
鋭い目付きと男勝りな立ち振舞いであるが、その反面醸し出されるお嬢さまのような気品さ。
彼女の名前はニコルちゃん。ティアの良き友達のひとりだ。
俺が彼女の存在に気が付いたことを確認すると、ニコルちゃんは微笑んで手を振りこちらにやってくる。
「おじさん、こんにちは」
「ああ、ニコルちゃんか。こんにちは。今日も元気だね」
「はい。今日もわたしは元気ですよ」
「はは、それはいいことだ」
そんな彼女は俺と同じように買い物かごを腕にかけていた。
しかし一緒に持っている持参の可愛らしい買い物袋を見るに俺とのレベルの違いを感じさせる。ごみの削減。さすが最先端の心構えだ。
けれどニコルちゃん、レジ袋はまだ無料で貰えるんだよ。ゴミ袋にもできるから俺は気にせずに貰っていく。
「ニコルちゃんも買い物かい?」
「はい、今夜は友達と一緒に焼き肉パーティーなんですよ。実家から帰ってきたレンもいるから、ティアも誘いたかったんですけど。ティアって今外国にいるんでしょ」
「そうだね。けれど今頃は帰りの列車に乗ってるんじゃないのかな」
「でしたら帰ってきたらわたしの家に来てって言ってもらえませんか? この夏季休暇はずっとレンにもティアにも会えなかったから寂しかったんです。わたしもですけど他のみんなもですよ」
と懇願するニコルちゃん。
「わかったよ。帰ってきたら伝えておく。けれど大丈夫かい? たぶん家に着く時間は夜の七時くらいになるだろうけれど」
「それくらいでしたら大丈夫です。わたしたちの時間はそこからが本番ですから」
「そうか、だったら大丈夫かな」
「ホントですか、やったぜ! あ、でも安心してくださいね。ちゃんと日付が変わるまでには解散するようにしますので」
「ああ、そこのところはよろしくお願いするよ」
言うと、ニコルちゃんは「了解です」とはにかんだ。
彼女を見ていると、ティアは本当にいい友達を持ったなと実感する。
彼女たちは彼女たちで己の中に確固たる正義を持っている。その心の在り様は俺から見ても感心するほどだ。だから俺は安心してこの地を離れることができるのだ。
「いつも本当に世話になっているね、ニコルちゃん」
「え、急にどうしたんですか」
と戸惑うニコルちゃん。
「そのままの意味だよ。ティアのこと、いつも見ていてくれてありがとうな。俺がいつもそばにいるわけではないから。その間はどうしてもティアの友人に頼ることになる。その中でも君は特によくしてくれているからね。その感謝も込めてさ。どうせならお礼に何かしてやりたいとも思っているくらいだ」
この後コーヒーでも奢るよ、とか言ってもいいのだろうがティアに知られたら何言われるか分からんしな。うん、やめておこう。
「ちょっとちょっとやめてください。さすがに照れますよ。わたしなんかティアといつも馬鹿なことしてるだけですから。でも、そうだ。でしたら一ついいですか」
と人差し指を立てて言った。
なんだい? と問いかけるとニコルちゃんは肩に掛けていた鞄から小さな可愛らしいインスタントカメラを取り出す。
「写真を撮らせてください。ツーショットで」
写真? 何を言いだすかと思えばそんなことでいいのか?
もっと要求してきてもいいだろうに。遠慮しているのか?
まあ、断る理由も見当たらないから素直に答えよう。
「いいよ、それくらいならよろこんで」
「ありがとうございます!」
そう言ってからの彼女の行動は実に素早かった。
辺りを見渡したかと思えば適度に大きな声で「店員さーん、ちょっといいですかー?」と叫ぶ。
そして近くを巡回していた店員さんを呼び寄せてはカメラを持たせ、操作方法を簡単に説明してから俺の横に立った。
「出来るだけ肩から上をメインに撮ってくださーい」
そして可愛らしい仕草でピースサインをする。
「ほら、おじさんもポーズ、ポーズ」
「え? あ、ああポーズね」
慣れないことに戸惑う俺は、ニコルちゃんと同じようにピースサインを作って微笑んだ。
そこで店員さんは若干の戸惑いを見せるも準備ができたのだと判断したのだろう。
「では撮りますよ?」
店員さんが訊くとニコルちゃんは「はーい、おねがいしまーす」と答える。
するとその数秒後、突然「パシャッ」とカメラが光を放った。
ああ、撮影直前の合図は無いんだね。
固まる俺を他所にニコルちゃんは店員さんもとに駆け、カメラから出てきた現像された写真を確認する。
「おお、いい感じじゃん。ありがとうございました、店員さん」
お礼をされた店員さんはぺこりと微笑みながらお辞儀をして元に仕事に戻っていった。
こちらに戻ってきたニコルちゃんは「これであいつらに自慢できるぞ、へへへ……」と怪しく微笑み写真を鞄の中にしまった。
これに何か深い意味があるのかい?
できれば彼女たちの遊びの範疇であってほしい限りだ。
ところで写真の結果はどうなんだい。出来れば俺にも見せてほしいのだが。
「おじさんも急なお願いに付き合ってくれてありがとうございます。ところでおじさんはここで何してたんですか?」
「……」
話の内容が変わってしまったな。出来上がった写真を見てみたい気もするが、まあいいか。ニコルちゃんが気に入ったのならそれで。
勝手に納得してからニコルちゃんの問いに答えることにした。
「これだよ」
言って買い物かごの中身を見せる。
「……あ、もしかしてカルボナーラ作ろうとしてます?」
「え、分かるのかい?」
「分かりますよ。この材料だとそれなのかなーって」
そこまで言ってニコルちゃんは何かに気が付いたように「あ――」と息を呑む。
「もしかして今日の夜にティアと食べる予定でした? だったらすいません。わたしの都合ばかりで話してしまって」
「いいんだよ。気にしなくても。焼き肉パーティーは今日しかできないけれど、カルボナーラは明日もできる。だから遠慮なくティアを誘ってやってくれ」
そう微笑んで言うと、ニコルちゃんは「ありがとうございます」と改めてお礼を言って小さく頭を下げるのだった。
◇
その後、軽く雑談をしてから別れようとした時だ。
どうせならあの事柄についてニコルちゃんに訊いてみてもいいかも、と頭の中を過るのだった。
「そうだ、ニコルちゃん。最後に一ついいかい?」
「はい、何ですか?」
「カルボナーラに入れるベーコンなんだけれど、これでちょっと迷っててさ。ティアの好きなベーコンの種類って知ってたりするかな?」
「うわー、これはまた難題を。もしかして試してます? わたしとティアの親友度」
「そんなわけないだろ。ただの気軽な質問だよ。俺も二つには絞れているんだけれど、そこから先が分からなくてね」
すると、ニコルちゃんは「うーん」と腕を組んで首を傾げる。
「えっとですね。わたしの記憶ですと、頬肉にはまってるって言ってた気がします」
「お、そうか。だったらグアンチャーレの方か。あれは頬肉だったはず」
「ですけどこれ、一ヶ月くらい前の話ですよ。今は変わってるかも」
「そんなにすぐ変わるか?」
「可能性はありますよ。だってあいつ『なんかこのチーズは違うなぁ』とか言って、ずっとはまってたチーズを急に止めて別のを探し始めたんです。それから一週間毎日チーズの種類違いで食べ比べ。さすがに止めに入りましたけど」
「……」
ティアさんよ。おまえは一体何を目指しているんだ?
「えっとですね。ちょっと提案、いいですか?」
「いいよ。なんでも言ってみてくれ」
「はい。提案って大層なものでもないかもしれませんが、言っちゃいますね。元も子のないことですけど……」
そうして彼女は言った。
結局のところ、これが悩んで時間を無駄にないために最初に至るべき結論だったのかもしれない。
「両方買えばいいんじゃないですか?」
◇
おそらく、来るべくしてきたのだろう。
偶然ではなく必然。
思い出したくもない過去を。しかしながら、忘れたくはない過去を。忘れるわけにはいかないあの日々を。ふとした瞬間、思い出したくなった。
それは昔の事が恋しくなったからでも、昔の生き方を教訓にこれからの日々を精進しようと思ったわけでもない。
ニコルちゃんと別れ、買い物を終えてから一人で家の大掃除をしている時のこと。机の引き出しの奥から昔撮ってもらった一枚の写真を見つけたからである。
あの時って何してたかな? のような軽い気持ちしかない。ただ、それだけの単純な理由だ。
古い写真には二人の男性と二人の女性、そして一人の少女が写っている。
中央の男はこの俺、アーネスト・マーベル。
そして俺の右隣で微笑んでいる小さな女の子。
名前をティア・パーシスという。
この写真を撮ったのは、今からちょうど十一年前になるか。
ふっと笑みがこぼれる。
よくこんな昔の品が残っていたなと呆れると同時に、よく残していたと自分に感謝したくなる気持ちもでてくる。
何故なら俺はもう現実でそれを目にすることはできないからだ。
俺たちの関係は既に崩れ去っている。あいつらとはもう、本当の意味で笑い合うことはできない。この写真でしか見ることのできないこの世で一番大切だった人もいる。
今日の買い物の時のような『どちらも』なんて話とは訳が違う。
たとえ全てを手にしたくとも、世界はそれを許さない。あの時、俺が手にした希望はたった一つの小さな命だけだったのだから。
今でこそ妙な確執があるが、それでも、あの頃は確かに幸せだったのだ。それを記録した一枚。だからこその感謝の気持ち。
ああ、そうだ。勘違いしないよう言っておくが、ティアは生きている。今も明るい日常を送っている。
しかし、だ。彼女にしても例外ではない。あの頃のティアはもういないのだ。
その中身。その内面。
――あのとき失われてしまったティアの記憶を。
――あのとき壊れてしまったティアの精神を。
だからこそ、これが残っていたことはせめてもの救いだ。
何せどう足掻いたところで俺は、あの頃のティアを取り戻す事は決して叶わないのだから。
さて。今はまだ昼過ぎ。
ティアが帰ってくるのは今日の午後七時くらいになると連絡を受けている。
俺の仕事の都合もあったのだが、学園の夏季休暇を利用して遠方の都市ハルリスに住んでいる友人の家に遊びにいかせていたのだ。
ティアが帰ってくるまでにはまだ余裕がある。
思い出に浸りながら、ゆっくり片付けるとしようか。




