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陰の俺と、輝く彼女。リタッチから始まる天使が恋に落ちるまで。  作者: 酒本 ナルシー。
第一章 春

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42話 「……ちょっと待って。」

 日曜日。


 都内の撮影スタジオ。


 まだ朝早い時間だというのに、現場はすでに動き始めていた。


 ライトが組まれる。


 背景紙が広げられる。


 カメラ機材の最終確認。


 衣装ラックには今日使用するコーディネートが何着も並んでいる。


 スタッフたちは慌ただしく行き交い、それぞれの持ち場で準備を進めていた。


 そんな中。


 スタジオのドアが静かに開く。


 「おはようございます」


 亜里沙はいつもの笑顔で一礼した。


 「本日はよろしくお願いします」


 自然な足取りでスタジオへ入っていく。


 その姿を見ていた編集部の部長が小さく頷いた。


 「やっぱり場慣れしてるな」


 隣にいた担当者も笑う。


 「ですね」


 「安心して見てられます」


 すると担当スタッフが亜里沙へ近寄った。


 「ありちゃん、おはよー!」


 「今日はよろしくね!」


 「こちらこそ、よろしくお願いします」


 「じゃあ、早速準備始めようか」


 担当スタッフに案内され、亜里沙はヘアメイクスペースへ向かった。


 鏡の前へ座る。


 クロスが掛けられる。


 ヘアメイク担当が髪へそっと手を伸ばした。


 指先で毛先を触る。


 表面をなぞる。


 ハイライトを確認するように、ゆっくりと髪を持ち上げた。


 「……」


 小さな沈黙が流れる。


 亜里沙は鏡越しにその表情を見つめていた。


 ヘアメイク担当は、もう一度亜里沙の髪を確認した。


 毛先。


 表面。


 そして細く入ったハイライト。


 「ちょと待っててね」


 穏やかな笑顔を残したまま、席を立つ。


 亜里沙は鏡越しにその背中を見送った。


 何か忘れ物でも取りに行ったのだろうか。


 そんな程度にしか思っていなかった。


 ヘアメイク担当は編集部の担当者と部長のもとへ向かう。


 「少しよろしいでしょうか」


 「どうしました?」


 担当者が振り向く。


 ヘアメイク担当は声の大きさを少し落とした。


 「モデルさんの髪なんですが……」


 「とても似合っています」


 「仕上がりも綺麗です」


 その一言に担当者は少し安心したように頷く。


 しかし。


 ヘアメイク担当は言葉を続けた。


 「ただ」


 「今回の秋特集のイメージとは、少し方向性が違うかもしれません」


 部長が資料から目を上げる。


 「方向性?」


 「はい」


 「ハイライト自体が悪いわけではありません」


 「ただ、今回の衣装やテーマを考えると、もう少し落ち着いた印象……」


 「例えばローライトのような表現の方が、服を引き立てられたと思います」


 その場に小さな沈黙が流れた。


 担当者は思わずスタジオの奥にいる亜里沙へ視線を向ける。


 鏡の前で座る彼女は、まだ何も知らない。


 部長は腕を組み、小さく息を吐いた。


 「……なるほど」


 短くそう呟くと、もう一度資料へ目を落とした。


 部長は少し考えたあと、静かに口を開いた。


 「カラーは今からじゃ直せない」


 誰かを責めるような口調ではなかった。


 事実を確認するような、落ち着いた声だった。


 「このままでいこう」


 担当者とヘアメイク担当が頷く。


 部長は続けた。


 「ヘアメイクと衣装で、できるだけ秋のイメージへ寄せてください」


 「スタイリストにも共有を」


 「承知しました」


 ヘアメイク担当はすぐに衣装スタイリストのもとへ向かう。


 部長は最後にもう一度だけ声を掛けた。


 「それと」


 「モデルさんには何も言わなくていい」


 「余計な緊張はさせたくない」


 「撮影は予定通り進めよう」


 「はい」


 三人は短く頷き合う。


 現場は再び慌ただしく動き始めた。


 その頃。


 鏡の前に座る亜里沙は、そんなやり取りがあったことなど何も知らない。


 鏡に映る自分の髪を見つめながら、小さく微笑んでいた。


 ヘアメイク担当が戻ってくるまで少し時間がある。


 ふとスマホを取り出した。


 蒼真なら、もう店で仕事をしている頃だろうか。


 少し考えてから、メッセージを打ち始める。


 『現場着いたよ!』


 送信。


 少し迷う。


 そして、もう一通。


 『撮影うまくいきそう、今度打ち上げしよ!(笑)』


 送信ボタンを押すと、亜里沙は満足そうに笑った。


 きっと今日はうまくいく。


 そんな気しかしなかった。


 その頃。


 美容室では蒼真が営業前の掃除をしていた。


 ポケットの中でスマホが震える。


 画面を見る。


 『現場着いたよ!』


 続けて届いたメッセージ。


 『撮影うまく行きそう、今度打ち上げしよ!(笑)』


 思わず口元が緩む。


 「打ち上げか……」


 小さく呟く。


 指を動かし、短く返信を打った。


 『わかった』


 送信。


 その返信が届く頃には。


 撮影現場では、誰も予想していなかった空気が流れ始めようとしていた。


 スタジオの空気が少しだけ変わる。


 衣装スタイリストがラックから何着か服を選び直す。


 ヘアメイク担当は亜里沙の髪を見つめながら、前髪や毛流れを何度も整えていく。


 編集部の担当者も資料を片手にスタッフと小さな声で打ち合わせをしていた。


 普段より少しだけ慌ただしい。


 それでも。


 誰一人として亜里沙には何も言わない。


 「もう少し待っててね」


 「はい」


 亜里沙は素直に頷く。


 撮影現場とはこういうものなのだろう。


 スタッフが忙しく動く姿を見ても、不思議とは思わなかった。


 やがて。


 すべての準備が整う。


 スタジオの照明が一斉に灯る。


 カメラマンがファインダーを覗く。


 「それでは、始めます」


 スタジオから雑談が消える。


 静かな緊張感だけが残る。


 亜里沙は深く息を吸う。


 そして。


 いつものように、カメラへ笑顔を向けた。



 カシャッ。


 一枚。


 カシャッ。


 二枚。


 カシャッ。


 三枚。


 撮影は順調に進んでいるように見えた。


 誰もがそう思っていた。


 カメラマンはカメラを下ろし、液晶モニターへ目を向ける。


 撮った写真を一枚ずつ確認する。


 そして。


 「……ちょっと待って」


 その一言で。


 スタジオの空気が止まった。


 編集部の担当者と部長がモニターへ集まる。


 衣装スタイリストも歩み寄った。


 誰も言葉を発しない。


 画面を見つめるだけだった。


 やがてカメラマンが静かに口を開く。


 「モデルさんはすごくいいです」


 「表情もポーズも問題ありません」


 「ただ……」


 モニターを指差す。


 「照明を当てると、ハイライトだけが思った以上に強く出ます」


 部長は画面を見つめたまま頷く。


 確かに。


 肉眼で見た時よりも、髪の明るい部分が目立っていた。


 衣装スタイリストも腕を組む。


 「服より先に髪へ目がいきますね」


 「秋服を見せたい企画なのに、視線が分散してしまう……」


 部長は少し考え、静かに指示を出した。


 「衣装を替えよう」


 「もう少し落ち着いた色で試してみてください」


 すぐにスタッフが動き出す。


 ラックから別の衣装が運ばれてくる。


 亜里沙は何が起きているのか分からないまま、スタッフの指示に従って着替えた。


 再びライトが灯る。


 撮影が始まる。


 カシャッ。


 カシャッ。


 数枚撮影し、カメラマンはもう一度モニターを見る。


 静かな沈黙。


 衣装スタイリストが小さく息を吐いた。


 「……やっぱり」


 部長もゆっくりと画面へ目を落とす。


 衣装を替えても。


 髪だけが、秋の空気から少しだけ浮いて見えた。


 撮影は最後まで行われた。


 衣装を替え。


 ポーズを変え。


 背景を変え。


 カメラマンの指示に合わせながら、亜里沙はいつも通り笑顔を作り続けた。


 「はい、いいです」


 「次お願いします」


 「そのまま目線だけこちら」


 シャッター音が何度もスタジオへ響く。


 そして。


 「以上です」


 カメラマンがカメラを下ろした。


 「お疲れ様でした」


 その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。


 スタッフたちも口々に挨拶を交わす。


 「お疲れ様でした」


 「ありがとうございました」


 亜里沙も笑顔で頭を下げた。


 「ありがとうございました!」


 やり切った。


 そんな表情だった。


 担当スタッフが近寄る。


 「ありちゃん、今日はありがとうね」


 「また連絡するね」


 「はい!」


 亜里沙は元気よく返事をする。


 最後まで、自分の撮影はうまくいったと思っていた。


 スタジオを出る亜里沙を、スタッフ全員が笑顔で見送る。


 ドアが閉まる。


 静かになったスタジオで。


 部長が小さく口を開いた。


 「本人は、本当によかった」


 誰も否定しない。


 表情も。


 ポージングも。


 現場での受け答えも。


 どれも申し分なかった。


 部長はモニターへ目を向ける。


 そして静かに言う。


 「……今回は企画との相性が悪かったな」


 その一言だけだった。


 スタジオには、誰も責める声はなかった。


 ただ。


 次にどうするべきかを考える、静かな時間だけが流れていた。




読んでいただいてありがとうございます。

長くなってしまいました。

『ちょ、ちょまてよぉ〜』キムタク

ネタが古くてすみません。

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