39話 昨日のように
亜里沙は時計を確認した。
「えっ」
予定の時間より、まだ十五分以上早い。
少し早く家を出たつもりだった。
だが。
思っていた以上に早く着いてしまった。
このまま店へ行けば。
「早く来すぎたかなって思われるかも」
少しだけ足が止まる。
店へ近付くにつれ。
自然と歩く速度も遅くなっていた。
「……一回戻ろうかな」
「この辺を一周してから来ればちょうどいいよね」
そう思った。
その時だった。
六月の心地よい風が吹く。
まるで背中を押されたような気がした。
自然と足は店へ向かっていた。
目の前には、
Salon RISE。
蒼真の実家の美容室。
ガラス扉の前で立ち止まる。
店内をそっと覗く。
カウンターの向こう。
蒼真がいた。
「あっ」
思わず小さく声が漏れる。
美容師の時の髪型だ。
学校で見る蒼真とは少し違う。
前髪を上げたその姿は、
前回見ているはずなのに、少しだけ新鮮だった。
その時。
蒼真も亜里沙に気付く。
一瞬目が合う。
そして。
にこっと笑って手を振った。
その笑顔を見た瞬間。
胸の中にあった緊張が、ふっとほどける。
「……もう」
先に見つかっちゃった。
少しだけ悔しい。
でも。
そんなことは、もうどうでもよかった。
さっきまで縮こまっていたワクワクが、一気に溢れてくる。
自然と笑顔になる。
亜里沙は迷うことなくドアノブへ手を掛けた。
カラン。
軽やかなベルの音が店内へ響いた。
「ごめん」
「ちょっと早く着いちゃった」
亜里沙が少し申し訳なさそうに笑う。
蒼真は首を横に振った。
「全然平気」
「俺、今日はもう上がってるから」
「暇で受付やってた(笑)」
その言葉に亜里沙も思わず笑う。
「そっか」
そんな会話をしながらも。
蒼真の手は止まらない。
「バッグ預かるね」
自然にバッグを受け取る。
そして。
亜里沙がもう一つ持っていた紙袋へ視線を向けた。
「それも預かるよ」
「あっ」
亜里沙は紙袋を差し出す。
「これ、差し入れ」
「みんなで食べて」
蒼真は少し驚いた。
「え、なんか悪いね」
「いいよ」
亜里沙は笑う。
「カラーもタダでやってもらうし」
「何もない方が悪いじゃん」
蒼真も小さく笑った。
「そっか」
「じゃあ遠慮なく」
紙袋を受け取ると、蒼真はそのままバックヤードへ向かった。
荷物を置きに行ったのだ。
店内にはほんの少しだけ静かな時間が流れる。
亜里沙は一人、小さく深呼吸をした。
「……ふぅ」
さっきまで平気だったのに。
蒼真がいなくなった途端、少しだけ緊張してきた。
大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。
すると。
バックヤードから蒼真が戻ってきた。
亜里沙は少し照れ笑いを浮かべる。
「時間早くてごめんね」
蒼真は笑って首を振った。
「気にしなくていいよ」
「それより」
「もう始めてもいい?」
その表情は学校で見る蒼真ではなかった。
美容師の顔だった。
亜里沙は少しだけ見惚れる。
そして笑顔で頷いた。
「よろしくお願いします」
亜里沙は鏡の前へ案内された。
タオルを掛けてもらう。
鏡越しに蒼真と目が合った。
まだ営業中の店内。
ドライヤーの音。
スタッフ達の声。
店内に流れる音楽。
前回来た時とは違う。
サロン全体が動いている。
その空気に少しだけ圧倒された。
「今日はまず根元を一回ブリーチして」
蒼真が鏡越しに説明を始める。
「一度流してから――」
真剣な表情。
落ち着いた話し方。
学校で見る蒼真とはまるで別人だった。
いつもなら少し頼りなく見えるのに。
今は違う。
ちゃんと美容師だった。
「そのあとハイライトを――」
説明は続いている。
でも。
亜里沙の頭には、ほとんど入ってこなかった。
気付けば。
鏡に映る蒼真ばかり見ている。
「――そんな流れで今日は二工程やるから」
そこでようやく我に返る。
「あっ!」
「う、うん!」
慌てて頷く。
蒼真は少しだけ笑った。
「じゃあ始めるね」
亜里沙は小さく息を吸う。
そして。
二度目のシャンプー台へ。
亜里沙は腰を下ろした。
首元へタオルが当てられる。
クロスを掛けてもらう。
そして。
蒼真がそっと頭へ手を添えた。
「倒します」
優しく支えられながら、ゆっくりとシャンプー台が倒れていく。
その手つきは自然だった。
もう何度もやってきた動きなのだろう。
亜里沙は少しだけ安心した。
どこか懐かしい。
でも。
つい最近のことのようにも感じる。
前回のリタッチ。
シャンプー台でのやり取りまで、不思議とはっきり覚えていた。
「お湯加減、大丈夫?」
「うん」
亜里沙は小さく頷く。
蒼真はお湯を流しながら言った。
「今日はカラー前だから、少し弱めにシャンプーするね」
「知ってる(笑)」
一瞬だけ沈黙が流れる。
そして。
二人とも思わず笑ってしまった。
蒼真は少し照れたように咳払いをする。
「……じゃあ始めるね」
優しく泡立てていく。
亜里沙はふと口を開いた。
「ねぇ」
「いつもそれ聞くの?」
「よわめに?とか」
蒼真は少し考えてから答えた。
「んー……」
「何だろ」
「力が入ってないシャンプーって、雑に感じる事あるんだよね」
「だから最初に言っておくと、お客さんも安心できるかなって」
亜里沙は少し感心する。
「あー……なるほど」
蒼真は少し笑った。
「まぁ」
「正直、営業中に先輩たちが言ってることを、そのまま真似してるだけの方が多いけど」
「見て覚えた感じかな」
「でも、それなら安心」
亜里沙は自然と笑みを浮かべた。
学校では少しぎこちない蒼真。
なのに。
美容室では違う。
ちゃんと美容師になろうとしている。
そんな姿が少しだけ眩しく見えた。
「はい、起こしますね」
蒼真の声が聞こえる。
ゆっくりとシャンプー台が起き上がる。
気付けば。
一回目のシャンプーは終わっていた。
いよいよ。
本番のリタッチが始まる。
読んでいただいてありがとうございます。
続きなのですが、物語進行ばかり考えていて、肝心のカラーの色味全く考えていませんでした。
少し勉強するので、明日の更新間に合わないかもしれません。
何卒ご理解よろしくお願いします。




