18話 曇りのち晴れ
その日の登校。
亜里沙は教室に入る前、もう一度心の中で決意した。
——今日こそ返す。
鞄のポケットに頭に留めていた水色のダッカールを留め直す。
もう何日も借りたままだ。
さすがに今日こそ蒼真へ返そう。
そう思いながら教室の扉を開いた。
するとすぐに、いつもの友達たちが集まってくる。
「ありさおはよー!」
「昨日のドラマ見た?」
「聞いて聞いて!」
賑やかな声に囲まれながらも、亜里沙の視線は無意識に教室の奥へ向かう。
窓際の後ろの席。
蒼真の席。
けれど。
そこはまだ空いていた。
「……」
まだ来てない。
そう確認した瞬間。
なぜか少しだけ胸を撫で下ろしてしまう。
ほっとしたような。
それでいて、どこか物足りないような。
自分でもよく分からない感覚だった。
友達との会話に流されているうちに時間は過ぎる。
そしてホームルーム直前。
教室の扉が開き、蒼真が少し急ぎ足で入ってきた。
いつもの眠そうな顔。
少し乱れた前髪。
「あ……」
今なら声をかけられる。
そう思った。
けれど。
友達に話しかけられ、気づけばそのタイミングは過ぎていた。
結局、そのままホームルームが始まる。
午前中の授業も終わり、昼休み。
今日こそは。
亜里沙はそう思いながら席を立った。
瑠華のところへ行けば、蒼真も近い。
自然に話しかけられるかもしれない。
そう考えていたのだが。
「ありさー!」
先に瑠華の方がやって来た。
いつものように亜里沙の机へ腰掛ける。
「聞いてよ昨日さー」
楽しそうに話し始める瑠華。
亜里沙は笑顔で相槌を打ちながらも、内心では頭を抱えていた。
まただ。
またタイミングがない。
蒼真は少し離れた席で、相変わらず机に突っ伏している。
ほんの数メートル。
なのに、その距離が妙に遠かった。
結局。
昼休みも何もできないまま終わる。
そして午後。
体育の授業の時間がやってきた。
更衣室で着替えを終えた亜里沙は、鏡の前に立つ。
長いアッシュの髪を手早くまとめ、後ろで一つに束ねる。
そして最後に。
鞄から水色のダッカールを外した。
慣れた手つきで髪を留める。
まるで最初から自分の物だったみたいに。
——あ。
そこで亜里沙は朝の決意を思い出した。
今日こそ返す。
そう決めたはずだった。
思わずダッカールへ触れる。
「……返さなきゃ」
小さく呟いた。
◇
その日の体育は中距離走だった。
正直、好きな種目ではない。
走るのは嫌いじゃない。
でも好きでもない。
スタートの合図と同時に走り出す。
けれど。
亜里沙の頭の中にあるのはダッカールのことばかりだった。
返そう。
でも返したくない。
なんで返せないんだろ。
そんなことばかり考えている。
当然。
走りに集中できるはずもない。
結果は散々だった。
ゴールした亜里沙は肩で息をしながら空を見上げる。
「最悪……」
思わず呟いた。
ふと視線を向けると。
少し離れた場所で、蒼真も死にそうな顔をしていた。
どうやら向こうも似たような状況らしい。
◇
授業の終わり。
体育教師がタイム表を見ながら言った。
「今日はタイムが一番悪かった男女一名ずつ、片付け手伝えー」
生徒たちから笑いが起きる。
そして。
「女子は瑠璃ヶ浜」
「うわー」
「どんまい亜里沙ー」
クラスメイトたちが笑う。
亜里沙は苦笑いしながら手を挙げた。
「はーい」
すると続いて。
「男子は米倉」
蒼真がゆっくり顔を上げる。
「……はい」
明らかに疲れ切った声だった。
その瞬間。
亜里沙の中で何かが切り替わる。
——今だ。
頭の中に、その言葉だけが浮かんだ。
今しかない。
このタイミングを逃したら、また返せない気がする。
亜里沙は無意識にダッカールへ触れた。
そして二人は、パイロンや用具を持って体育倉庫へ向かった。
校庭の端まで続く道を並んで歩く。
こうして二人だけになるのは、思っていたより久しぶりだった。
「てかさ、米倉くん足遅くない?」
亜里沙が笑いながら言う。
蒼真は少しだけ眉をひそめた。
「瑠璃ヶ浜さんだって遅かったじゃん」
「私はいいの。運動苦手だし」
「俺も苦手」
「絶対ウソ」
「なんで」
「なんとなく」
そんな他愛もない会話をしながら歩いていく。
やがて体育倉庫へ到着した。
二人とも両手が塞がっている。
蒼真は一度荷物を地面へ置くと、倉庫の扉を開けた。
「先どうぞ」
「ありがと」
亜里沙は軽く笑って中へ入る。
その後ろから蒼真も続いた。
倉庫の中は少しひんやりしていた。
体育館で使う備品やボール、マットが整然と並んでいる。
二人はそれぞれ用具を片付け始めた。
——今だ。
亜里沙はダッカールへ触れる。
今日こそ返そう。
そう思い、口を開こうとした。
その瞬間。
「瑠璃ヶ浜さん」
蒼真の方が一歩早かった。
「え?」
「髪、崩れてる」
亜里沙の動きが止まる。
「ちょっと後ろ向いて」
不意打ちだった。
何を言われたのか理解する前に、体が反応していた。
くるりと後ろを向く。
蒼真は特に気負った様子もなく近づいてくる。
美容室で見た時と同じだった。
髪を見ると、余計なことを考えない。
ただ自然に手が動く。
指先が髪へ触れる。
耳の横に流れた毛束をまとめる。
崩れた部分を整える。
そして最後に。
ダッカールで留め直した。
ほんの数秒。
それだけだった。
「よし」
蒼真は満足そうに頷く。
けれど。
亜里沙は全然よくなかった。
心臓がうるさい。
意味が分からないくらいうるさい。
サロンでカラーをしてもらった時。
シャンプーをしてもらった時。
髪に触れられたことなんて何度もある。
なのに。
今の方がずっと緊張する。
何倍も。
頭の中が一瞬でぐちゃぐちゃになる。
——ダッカール返すって言わなきゃ。
いや、その前に。
——走った後だし汗くさくなかったかな!?
——ていうかそんなに髪乱れてた!?
——今めちゃくちゃ近くなかった!?
次々と思考が暴走していく。
そんな亜里沙とは対照的に。
蒼真は何事もなかったように次の用具を片付け始めていた。
亜里沙は何とか気持ちを落ち着かせる。
うるさい心臓を無視して、もう一度ダッカールへ手を伸ばした。
「そうだ」
蒼真が次の用具を片付けようとしたところで声をかける。
「ん?」
「ダッカール」
亜里沙は少しだけ気まずそうに笑った。
「ずっと借りててごめん」
ダッカールへ触れながら続ける。
「なんか借りパクしちゃってるよね、あたし」
すると蒼真は一瞬だけ目を丸くした。
そして意外そうな顔で言う。
「え?」
「別にいいけど」
「いいの?」
「うん」
蒼真はあっさり頷いた。
「ちゃんと使ってくれてるみたいだし」
その言葉に亜里沙の胸が少しだけ軽くなる。
すると蒼真はダッカールを指差した。
「ていうかさ」
「結構使いやすいでしょ?」
その瞬間だった。
急に蒼真の口数が増える。
「普通のクリップだと留まり悪いし」
「それ、挟む力強いから崩れにくいんだよ」
「あとロングだと特に使いやすいし」
「前髪まとめる時も――」
気づけばべらべら喋っている。
さっきまでとは別人みたいだった。
亜里沙は思わず笑ってしまう。
「米倉くん、これ好きなんだね」
「……あ」
蒼真がようやく我に返る。
少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「ごめん」
「別にいいよ」
亜里沙は小さく笑う。
不思議だった。
ずっと引っかかっていたもの。
返さなきゃ。
でも返したくない。
そんなモヤモヤが、いつの間にか少し軽くなっている。
理由はよく分からない。
でも今は、それでよかった。
亜里沙はダッカールへそっと触れた。
そして少しだけ笑う。
「じゃあ……もう少し借りとく」
蒼真は一瞬だけ目を丸くした。
けれど、すぐに肩をすくめる。
「どうぞ」
「ありがと」
亜里沙は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、蒼真も少しだけ笑う。
二人は用具の片付けを終えると、並んで体育倉庫を後にした。
片付けに時間がかかったせいで、更衣室へ寄る余裕はなかった。
亜里沙と蒼真は、そのままの格好で教室へ戻る。
教室ではすでにホームルーム前の空気になっていた。
席へ戻った亜里沙へ、真っ先に瑠華が声をかける。
「おつかれー」
「つかれたー……」
亜里沙は自分の席へ腰を下ろした。
すると瑠華が、ふと目を細める。
「あれ?」
「ん?」
「ありさ、その髪いいじゃん」
瑠華は後ろから髪を眺める。
体育前にまとめた時とは少し違う。
走った後なのに、不思議と綺麗にまとまっていた。
「それどうやったの?」
突然聞かれ、亜里沙の肩がわずかに揺れる。
「え?」
「だから、その髪」
「どぉって言われても……普通に?」
明らかに誤魔化せていない。
けれど瑠華は、それ以上追及しなかった。
「ふーん」
どこか納得したように頷く。
その様子を見ていた七宮も話に混ざってきた。
「確かに」
「今日のその髪いいじゃん」
「似合ってる」
悪気のない褒め言葉だった。
「ありがと」
亜里沙は笑って返す。
少し離れた席では、そのやり取りが蒼真の耳にも届いていた。
何気ない会話。
それだけのはずなのに。
なぜか少しだけ誇らしい気持ちになる。
もちろん顔には出さない。
出せるわけもない。
蒼真は何事もないふりをしながら、そっと視線を逸らした。
そしてその日の夜。
亜里沙はお風呂へ入るまで、一度も髪をほどかなかった。
読んでいただいてありがとうございます。
因みに蒼真くんは、ダッカール30個くらい持っています!




