三章
水月は走り続けていた。
小気味良いリズムの足音と、やけにうるさい呼吸音だけが脳に響く。
そんな水月の肌に冷たい感触が伝わる
(...雨?傘持ってきてないや...でも、あと少し...)
水月は構わずに走り続けた。
桜と共に笑い合った景色が眼前に映る道を。
その記憶の邂逅と共に、雨音は勢いを増していく。
濡れた布が張り付く脚で、水月は目的地に到着した。
あの日、桜と共に笑い合った地。
海沼桜がスケートを始めた、あのスケート場に。
かつては子供達の声で賑わっていたその場所は、今や人の気配を失っていた。
取り外された看板、錆びた手すり、背の高い草、思い出が薄れると共に、この場所も眠りにつこうとしていた。
「特別にリンクを残してもらってる。今鍵を開けるから待ってろ。」
懐かしい声が響く。
そこには当時、水月と桜を担当していたコーチが立っていた。
少し前までは桜の専属コーチとして
インタビューにも映っていた、桜と関わりの深い人物の1人である。
「コーチ?!何で...あの時は、知らないって...」
水月は桜の死を調べる段階で、もちろんコーチにも話を聞いていた。
「あの子の我儘だよ。最初で最後のな…」
重い音と共に扉が開かれた。
一歩進むごとに思い浮かぶ、桜との思い出。
鬼ごっこをした受付前、桜がよく躓いていた段差、一緒に宿題を進めた机、よくアイスを買って貰った自販機。
中にはあの日の景色がそのまま残っていた。
さらに奥へ進む。
誰もいない筈のスケート場、薄暗い舞台の中で、スケートリンクのみがギラギラと照らされている。
冷たい風が濡れた身体を襲う。
言い様もない懐かしさの中で、水月はスケートリンクの中央にあるファイルに気がついた。
振り向くと、コーチがシューズを持って立っている。
「レンタル用のもんだ。大丈夫、金は取らない。」
水月は何も言わずにシューズを受け取った。
手のひらが地面に押し返されるような重さを感じる。
何度も繰り返した靴紐を結ぶ動作を、朧げながら思い出す。
ふくらはぎから下が、まるで一本の棒になったかの様に固定される感覚。
水月は荒ぶる心音と共にスケートリンクへ足を差し出した。
次の瞬間、世界が揺れる。
骨の芯から全身に伝播するような痛み、少し遅れて氷の冷たい感触がやってくる。
「うわぁっ!!」
(転ぶのってこんなに痛かったっけ...そっか、あの頃よりも重いからか。桜は、こんな中でずっと...)
足を震わせながら、ゆっくりと起き上がった。
そのままリンクの中央に向けて、体重を乗せる。
体に染み付いた加速。
風が頬に突き刺さる。周りの景色が流れていく。
(あの日の夕暮れ、横には桜がいて、あやふやで、それでも確かな時が流れていて。)
目で追っていた桜の幻影がピタリと止まる。
水月は焦ってスピードを緩めるが、無理な動きが水月を氷に叩きつける。
痛みに震えながらも、水月はファイルを拾い上げた。中には紙が入れられており、そこには「水月へ」の3文字が刻まれている。
水月はその場でその手紙に目線を沿わせた。
———————————————
水月へ
この手紙を読んでいる頃には、私はもう…
なんて、ありきたりな書き出しは要らないよね。
見つけてくれて、ありがとう。
こうすれば、水月と一緒にスケートが出来た気分になれるかなって思って、コーチにも手伝ってもらったんだ。
何も言わずに死んじゃって、ごめん。
実はずっと、水月に隠し事しててさ。
あの日、水月がスケートを辞めた日、私のせいだって思っちゃった。
あれからも心のどこかで、水月の為にスケートを続けようって思っちゃってた。
本当にごめん。私をスケートに誘ってくれた人に向けて….私最低だよね。
あの動画を見て、ここに来てくれたんだよね。
あれが、フィギュアスケーター海沼桜としての最期。
怪我する前はみんな私のスケートを褒めてた。
それなのに、怪我が治った後は殆ど見られる事が無くなっていって、酷い事を言う人もいた。
だから、桜としての最期の言葉は、最初に水月だけに聞いて欲しかった。
それだけの理由で、あんな大袈裟な事しちゃったよ。
水月、本当にありがとう。
宝物をもう一度見つけられて、
私はもうこれで大満足!
私にスケートを教えてくれて、
私を友達だと言ってくれて、
私を支え続けてくれて、
私の、親友でいてくれてありがとう。
———————————————
涙の乾いた跡が目立つ、くしゃくしゃの手紙。
水月の肌を氷の冷たさが侵食する。
心の奥から、温かいものがじわぁっと広がる。
水月の目尻から、一つの涙が溢れた。
それが手に触れ弾けるのを皮切りに、大粒の涙が溢れ出す。
“スケートを辞めた浅野水月”が、桜にとっての負担になっていた事。
怪我の回復を、桜の復活だと楽観視していた事。
桜の本音を、聞き出す事が出来なかった事。
「桜は...桜はこんなに苦しみ続けて来たのに、
そんな事、知らなかった。気が付かなかった...」
あの日、桜に向けた期待。
あの日、口から漏れた疑問。
知らなかったでは済まされない。済ますべきでは無い行動の一つ一つが刃物のように
水月を突き刺し、引き裂き、抉っていく。
何本もの針が心を破り開いて刺し込まれる。
水月は声を張り上げて涙を流した。
手足が、指先がまるで自分のものではなくなったかのように動かない。
空気がうまく吐き出せない。
音が何も聞こえない。
涙で散らかった顔のまま、水月は感情を吐き出し続けた。
どれほどの時間が経っただろうか。
水月は朧げな足取りで氷から降りた。
ベンチに腰掛け、ファイルを強く握りしめる。
コーチが静かに呟いた。
「俺が桜から受けた頼みはここまでだ…ここから何をするかは、お前次第だ」
冷たい沈黙が流れる。
それを押し除けるかのように水月は口を開いた。
「あの遺書は、海沼選手としての遺書だった。
桜の葬式はまだ終わってない。
私が真実を白昼の元に晒す。それで、氷の上の海沼選手じゃなく、桜として、弔いたい。」
赤く充血した目が想いを語る。
そこにあの日の様な怒りは無い。
使命感もなく、親友への想いと自らのエゴが
水月の意志として、胸の奥で形を持っている。
「...そうか。出来る事があれば呼んでくれ。
もう桜の願いは叶えた。ここからは俺の想いとして、手伝わせてくれ。」
水月は静かに、桜との宝物が眠るこの場所から立ち去った。
受付を通り、重いガラスの扉を越える。
水月の顔を空から差し込んだ陽光が照らし出す。
水月は光の出所を探す様に、ゆっくりと顔を上げた。
「...晴れてたんだ。」
一面の青空の元、少女は呟いた。




