四章
一歩ずつ歩みを進める。
街路樹がまばらな影を作り、揺らいでいる。
真横をトラックが通り過ぎ、生温い風が顔を覆う。
タイヤの音が一瞬だけ蝉の鳴き声をかき消す。
信号が規則的に点滅し、自転車が急いで駆け抜ける。
普段なら気にも留めないような一つ一つの出来事が、靴の中で転がる小石のように水月に存在を訴えていく。
その一つ一つに目を通しながら水月は
あるビルの一室へと足を運んだ。
冷たいコンクリートが一面を囲う。
35℃を超える猛暑日だが、外とは打って変わって冷たい空気が漂っている。
地面にはどこに繋がっているのかも分からないコードが絡まり合い、いくつかのパイプ椅子と机が乱雑に置かれている。何かの事務所として使われていたのだろうか。
やけに広く、やけに寂しい部屋の隅でコーチがカメラのセッティングを行っていた。
「元々はあの時もここで撮るつもりだったんだ。桜の最期は氷の上でっていう希望で使わなかったがな。」
「コーチ....コーチはいつから知ってたの?桜の事.....」
三脚の高さを調整する手が一瞬止まり、
まるで過去の幻影をなぞるかのように視線を前へ送る。
「あの子はずっと苦しんでたんだ。
周りの期待、自分の意思、不条理な現実、
そして、お前との約束。
....悪いな。責めてるつもりはない。
ただ桜の中で、お前との約束はスケートをやる理由で、スケートを辞められない原因だった。
誰にも言わず、辛かったはずなのに隠し続けて、
多分俺が気づけたのなんて氷山の一角に過ぎない。だからこそ、止められなかったんだ。」
何度も同じ言葉を脳内で反復し続けたのだろう。苦悶する顔とは裏腹に、その台詞はすらすらと流れ出る。
水月は桜の遺書をそっと置き、カメラの先へ向かった。
「私は少しも気づけなかった。
桜の嘘を暴いて軽口を叩くことすら、私は出来なかった....しなかった。
今から始めるのは、弔いでもあるし贖罪でもあるって思ってる。
これを見た桜がどう思うかなんて分からない。
もしかしたら、桜の意思に背く事になるのかも知れない。
それでも、海沼桜の最期が氷の上で消化されて欲しくない.....コーチ。始めよう。」
カメラから機械的な音が流れる。
強い照明と輝く氷、派手な衣装に飾られた桜の動画とは明らかに違う。
薄暗い部屋の隅で普段着を見に纏った無名の少女が語り始めた。
「全日本ノービス選手権優勝選手、海沼桜。
彼女はその若さに見合わない実力から、天才少女として注目され始め、各方面から余す事のない賞賛を受けました。
その後の全日本ジュニア選手権でも表彰台入りを果たし、国際大会にも出場。
誰もがその実力に惹かれ、彼女の演技に釘付けになりました。
マスコミの取材やファンの増加に追われながらも、彼女は実力を伸ばし続け、全日本フィギュアスケート選手権への出場権利を得ました。
そして同大会。優勝候補の一角として注目されていた彼女を襲う悲劇が起こります。
転倒による右足首の骨折。彼女は5ヶ月の療養を余儀なくされました。
その5ヶ月という期間は、彼女の心を癒すには限りなく短く、世間の注目が去るには十分過ぎる程に長いものでした。
その後、選手として復帰した彼女を待っていたのは、その一挙手一投足を監視するような期待の目。天才だった海沼桜と比べ続けるような視線が彼女を襲いました。
彼女はその後の数大会で結果を残す事は出来ませんでした。
そんな中、彼女への期待は失望へと姿を変え
彼女を襲い続け、あの頃の海沼桜を望む声を助長する結果になりました。
そして先日。彼女の人生は......彼女の人生は自殺という形で終わりを迎えます。
桜という一人の人間の人生の終幕。
本来そこに集まるはずだった弔いの声は、
天才少女の自殺というタイトルに向けられた
好奇心と批判で埋め尽くされました。
何故死んだのか。本当は他殺なのでは無いか。
何が彼女の死を招いたのか....
桜という17歳の少女の死には目も向けない
無粋なコメント。
まるで一つのエンターテイメントを解き明かすような邪気なき悪意によって、
桜の人生は悲劇のラベルを貼られ、ネットの海の中で弄ばれました。
スケートリンクの上の彼女。劇的な最後を終えた彼女。
それらは本来、桜を構成する要素の一つでしか無かった筈...それなのに、その表面的な部分で桜を総括し、期待の目を向け、必死の演技を楽しんだ挙げ句、死後はエンタメとして消化する。
数ヶ月後には忘れるくせに、今自分が楽しむ為だけに桜の死を愚弄してまで海沼選手を消費していく....
誰もその姿に疑問を持たなかった。
無意識のうちに桜という人間を無視して、
死者の尊厳を傷つけながら、
それにも気づかず自分勝手に忘れていく。
誰かにとっての一番大切な人かもしれない事に気づこうともせずに、娯楽としてしか桜の死を見ない。
そんな姿はきっと間違っています。
私はこの動画がより多くの人に届く事。
もう二度と、桜のような被害者が出ない事。
そして桜の死がもう一度、青空の元で慈しまれる事を望みます。」
水月の礼と共に、コーチの操作でカメラが止められた。
この場所の静けさを再確認させるような沈黙。
うっすらと外の雑踏が聞こえる中、水月はしばらく経った後に動き出した。
桜の遺書と少しの荷物を持ち歩き出す。
コーチが紙袋からいくつかの花を取り出した。
「片付けが終わったら向かう。先に行っといてくれ。」
「うん。分かった。」
数本の花を受けとり、水月が出口に向かって歩き出す。その足音を引き止めるかのようにコーチが話し始めた。
「水月....悪いな。何も出来ない大人でよ。
結局、お前が世間の声を受ける立場になっちまって....桜の時も、俺は何も.....」
「コーチ。わがまま聞いてくれて、ありがと。」
水月はその声をかき消した。
三脚の解体音と鼻水を啜る音のみがビルに残った。
大通りから少し逸れ、細い階段を登っていく。
凹んで歪な形になっているバケツの中に、
硬い音を立てながら水が溜まる。
遮るもののない日差しが容赦なく突き刺さり、ほのかな土の香りと虫の音が鳴り響く霊園。
水月は不慣れ足取りで親友の墓へ向かう。
周りと比べて、一際綺麗で目の惹かれる墓。
海沼桜の名が刻まれた墓に柄杓で水を掛けていく。いくつかの花が既に添えられている花立に
新しい花を追加する。
「桜、久しぶり。」
水月は話し出した。桜と一緒に帰ったあの日を思い出しながら。まるでテストの愚痴をこぼすかのように。
「ごめんね。遅くなっちゃって。
でも、お墓参りは動画を撮り終えた後って決めてたから。
桜、怒るかなって思った。こんな事、勝手にして良いのかなって。それで考えたんだ。
桜、私に嘘ついてたでしょ?
二人の間に嘘は無しって約束を破った桜には、
罰ゲームを受けてもらいます!
内容は、私の行動に文句を言わない事!
私に黙って、いっぱい好き勝手やったんだから、受け入れるよね。
あっ、あとそれとね。
私、スケート再開する事にした。
趣味の範囲で、大会とかは出るつもり無いけど、
誰かさんのお陰で久しぶりに滑りたくなっちゃってさ〜
...ね、桜。
私とスケートをしてくれて、
私の友達になってくれて、
私を支え続けてくれて、
私の、私の親友でいてくれてありがと。」




