第7話「覚えられた名前」
月庭の南側の扉を開けると、廊下の冷たい空気が頬に触れた。
フィリアは一歩外へ出て、ようやく胸の奥に残っていた息を吐きかけた。
白塔寮の女子生徒たちはもういない。
足音も聞こえない。
月庭棚も見られなかった。
大丈夫。
今だけは、そう思ってしまった。
だから、扉の先に人影があったとき、体が動かなかった。
少し先の廊下に、白塔寮の白い上着をまとった男子生徒が立っている。
淡い光を受けて艶を帯びる白銀の髪。
静かにこちらを向く、薄青の瞳。
ノア・クラウゼル。
こんなところで会うはずがない。
さっきの女子生徒たちをやり過ごして、月庭棚の無事も確かめて、やっと外へ出たばかりだった。
それなのに、今一番会ってはいけない人が、扉を開けたすぐ先にいた。
フィリアの指が、斜めがけの鞄の紐を探すように震えた。
月庭の奥に置いた小瓶のことも、添え書きのことも、全部そのまま胸の中で音を立てる。
「あ……あの……」
声が裏返った。
ノアはすぐには何も言わない。
視線だけが、月庭の扉、フィリアの顔、斜めがけの鞄へと静かに移る。
「君は、この温室の係か」
低い声だった。
冷たくはない。
だが、余計な温度がない声だった。
「は、はい……薬術科2年の、月庭係です……」
うまく言えず、フィリアは鞄の紐を握りしめた。
ノアの目が、ほんの少しだけ月庭の奥へ向く。
廊下から白い飾り棚は見えない。
それでも、フィリアの胸はぎゅっと縮んだ。
「白塔寮の生徒が来ただろう」
「えっ……あ、はい……」
「何を聞かれた」
「ノア様を、見なかったかと……」
「君は何と答えた」
淡々とした問いだった。
責められているわけではない。
それなのに、ひとつ答えるたびに胸の奥が狭くなる。
「私は……薬草の確認をしていて、人の出入りはあまり分からないと……」
「そうか」
ノアの表情は変わらなかった。
嘘だと疑われたのか。
余計なことを言ったと思われたのか。
分からないまま、フィリアは視線を落とす。
「それでいい」
「……え?」
思っていた言葉ではなくて、フィリアは顔を上げた。
ノアは月庭の扉を見たまま、短く続ける。
「騒ぎになれば、薬草区画にも迷惑がかかる」
「あ……はい……」
礼を言われたわけではない。
慰められたわけでもない。
ノアにとっては、ただ必要なことを確認しただけなのだろう。
それでも、さっき必死に奥へ行かせまいとした自分の行動が、少しだけ無駄ではなかった気がした。
「名前は」
「……え?」
「君の名前だ」
息の仕方を忘れた。
魔術科首席が。
学院中が遠くから見上げる人が。
自分の名前を聞いている。
「あ……フィ、フィリア・ノクスレイ、です……」
ノアはその名を、静かに繰り返した。
「フィリア・ノクスレイ」
ただ名前を呼ばれただけだった。
それなのに、廊下の空気が一瞬だけ薄くなったような気がした。
嬉しい、ではない。
怖い、だけでもない。
遠くにいたはずの人が、こちらへ一歩だけ近づいてしまった。
そんな感覚だった。
ノアはもう一度、月庭の扉へ視線を向ける。
「覚えておく」
それだけ言って、彼は踵を返した。
白い上着の裾が、廊下の薄い光の中で静かに揺れる。
足音が遠ざかっても、フィリアはしばらく動けなかった。
名前を知られてしまったが、月庭棚に薬を置いたのが自分だと、気づかれたわけではない。
何かがひとつずつ、確かに自分へと近づいてきている気配がする。
月庭の引き出しには、まだ今夜の分の薬が置いてある。
そして、その薬を必要としている人は、今、自分の名前を覚えて去っていった。
フィリアは震える指で、鞄の紐を握りしめた。
◇◆◇◆◇
その夜、フィリアは寝台の中で何度も目を覚ました。
目を閉じるたび、ノアの低い声が耳の奥によみがえる。
――フィリア・ノクスレイ。
ただ名前を呼ばれただけ。
月庭係として覚えられただけ。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥は落ち着かなかった。
薬を置いた人間としてではない。
白い棚の近くにいた生徒として。
月庭を管理する係として。
ノア・クラウゼルの中に、自分の名前が残ってしまった。
それが怖いのに、何度も思い出してしまう。
フィリアは布団を握りしめ、目を閉じた。
眠れないまま、夜だけがゆっくり過ぎていった。
◇◆◇◆◇
翌朝、フィリアは1限の授業前に月庭へ向かった。
薬術棟の廊下にはまだ人が少ない。
朝の光が窓から細く入り、床に長い影を落としている。
月庭の扉を開けると、湿った土と蒼冷草の匂いが静かに流れてきた。
フィリアはまず入口側の鉢を見た。
それから奥へ進み、蒼冷草が多く並ぶ区画へ向かう。
白い飾り棚の前で足を止めた。
三日月の引き出しには、昨夜置いた小瓶が空になって戻されていた。
その横に、また折られた便箋がある。
フィリアは一度周りを確かめてから、震える指でそれを開いた。
『昨夜も眠れた。熱の戻りは少ない。指示通り、間を空ける』
整った文字だった。
相変わらず無駄がなく、冷静で、ただ事実だけが並んでいる。
それでも、フィリアは胸の奥が少しだけ熱くなるのを止められなかった。
眠れた。
熱の戻りは少ない。
その2つだけで、昨日からこわばっていた息が少し緩む。
だが、次の行を見た瞬間、指先が止まった。
『月庭の周囲が騒がしくなっている。今日、月庭係に管理の確認を取る。棚の薬の件は出さない』
月庭係。
それは、自分のことだ。
昨日、名前を聞かれた。
フィリア・ノクスレイと呼ばれた。
だが、ノアはまだ、月庭棚に薬を置いた誰かと、月庭係のフィリアを結びつけていない。
同じ人間だとは気づいていない。
近い。
とても近い。
だが、まだ届いていない。
怖さと安堵が同時に広がり、フィリアは便箋を丁寧に畳んで鞄の内側へしまった。
返事を書く勇気はない。
言葉を返せば、自分の気配が残りすぎる。
だからこの小さな紙に、ただ用法だけを書く。
『熱が戻った夜だけ、4分の1匙』
先日作ってあった、効果をさらに弱めた薬を入れた小瓶を置き、毒見石へ底を触れさせる。
石は淡く光り、すぐに澄んだ色へ戻った。
フィリアは月庭棚の三日月の引き出しをそっと閉じる。
これ以上、同じように置き続けるのは難しいだろう。
月庭の周りにはもう、人の目が集まり始めている。
それでも、今日だけは置いておくことにした。
ノアの熱がまだ戻る夜があるのなら、何も残さずに去ることはできなかった。
朝の月庭には、蒼冷草の青い香りが細く続いている。
フィリアは鞄を抱え直し、教室へ向かった。
授業が終われば、きっとノアは月庭係である自分を探しに来る。
名もなき調薬師としてではなく、月庭係のフィリア・ノクスレイとして。




