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第6話「月庭係」


 南側の扉の向こうで、白塔寮の女子生徒たちの声が止まった。


「ねえ、本当にここ?」


「分からないわ。でも、薬術棟の奥で白塔寮の男子生徒の上着を見たって聞いたのよ。少しだけ中を見てみましょう」


 今開けられたら、中に人がいると気づかれる。

 何をしていたのか、聞かれるかもしれない。


 月庭棚の置き薬が見つかったら、必ず噂になるだろう。


 落ちこぼれと笑われているフィリア・ノクスレイが薬を置いていた。

 しかもその相手までバレるようなことがあれば。


 あのノア様に何をしたのか、どうして近づいたのかと責められるだろう。

 ノアが隠している不調も、月庭棚に置いた薬も、きっと悪い話に変えられてしまう。


 だが、もう扉は外側から押されているところだった。

 古い蝶番が軋み、白塔寮の女子生徒が2人、月庭を覗き込む。


「……あら」


 先に入ってきた女子生徒が、フィリアを見て眉を上げた。


「誰かいるわ」


 もう1人の視線もこちらへ向く。


 白塔寮の上着は、薬術科の寮――翠月寮すいげつりょうのものよりずっと明るく見えた。白地に銀の飾りが入り、袖口まできれいに整っている。

 2人とも上級生らしく、ただ立っているだけで、フィリアよりずっとこの学院に馴染んで見えた。


 フィリアはジョウロを腕に抱えたまま固まる。


「あ、あの……」


 声が喉に引っかかった。


「こ、この温室は……薬草の、管理区画なので……」


「あなた、薬術科の子?」


「は、はい……」


 女子生徒の視線が、フィリアの髪、鞄、古びた袖口、ジョウロへと下りていく。


 軽く見られている。

 そう分かって、体が冷たくなった。


 だが、ここで黙れば奥へ入られる。

 奥へ入られたら、月庭棚を見られるかもしれない。


 フィリアはジョウロを抱え直した。


「わ、私は……月庭の管理係です。今、薬草の水分を確認していて……奥の蒼冷草は、触ると葉が傷みやすいので、今は……通れません」


 うまく言えたかは分からない。


 月庭は薬術科2年の管理区画のひとつだ。

 古くて奥まっているせいで、普段から人は少ない。

 だが、管理係のフィリアがここにいること自体は不自然ではない。


 それだけが救いだった。


「月庭係?」


 女子生徒の一人が、聞き慣れないものを見るように言った。


「そんな係があるのね」


「薬術科って大変ね。こんな暗い温室まで学生が見なくてはいけないなんて」


 くすりと笑われる。


 フィリアは何も言えなかった。

 否定すれば角が立つ。黙れば見下される。


 それでも、2人の視線が奥の月庭棚がある奥へ向かないように、少しだけ体をずらした。


「それより、あなた」


 先に入ってきた女子生徒が一歩近づく。


「こちらで、ノア様を見なかった?」


 心臓が跳ねた。


「あ……えっと……」


「薬術棟の奥で見たという話があるの。白塔寮の上着なら、見間違いではないと思うのだけれど」


「こ、この辺りは……薬草の区画が、他にもあるので……」


「ここでは見ていないのね?」


 やわらかい声なのに、逃げ道を塞がれるようだった。


 ノアは月庭を使っていた。

 だが、それを言えばここへ視線が集まってしまうだろう。


「す、すみません……私、薬草の確認をしていて……人の出入りは、あまり……」


「そう」


 女子生徒はまだ納得していない顔だった。


 もう1人が月庭の中を見回す。


「でも、ノア様がこんなところに来るかしら。服に土の匂いがつきそうよ」


「確かに。けれど、こういう人目の少ない場所だからこそ来られるのかもしれませんわ」


 2人の視線が、温室の奥へ向きかけた。


 ――月庭棚。


 フィリアの背中に冷たい汗が滲む。


「あ、あの……っ」


 思ったより大きな声が出て、2人が振り返った。

 フィリア自身も驚き、ジョウロを抱える腕に力を込める。


「そ、その奥は、今……水をやったばかりで、足元が濡れています。鉢も動かしたばかりなので……入るなら、薬術科の先生に確認してからの方が……」


 言葉は途中で細くなった。


 それでも、言えた。


 女子生徒の一人が、嫌そうに足元を見る。


「濡れているの?」


「は、はい……少しだけ……」


「それなら今日はいいわ。靴を汚してまで見る場所でもないし」


「そうね。やっぱりノア様がここへ来るなんて、何かの見間違いかもしれないわ」


 そう言いながらも、2人は完全には納得していない様子だった。


 去り際、先に入ってきた女子生徒がフィリアを振り返る。


「ねえ、あなた。もしノア様を見かけたら、白塔寮の生徒が探していたと伝えてくれる?」


「えっ……あ……」


「お願いね」


「は、はい……」


 2人はその返事を聞いて、ようやく月庭を出ていった。

 扉が閉まり、足音が遠ざかる。


 フィリアは南側の入口近くに立ったまま、しばらく動けなかった。


 怖かった。


 ただ話しただけなのに、喉が乾いている。ジョウロを持つ腕も震えていた。

 だが、奥の月庭棚までは見られなかった。


 フィリアは一度深呼吸してから月庭の奥へ戻った。


 入口から白い飾り棚までは少し距離がある。

 蒼冷草の鉢が並ぶ細い通路を抜け、湿った床石を踏みながら奥へ進むたび、さっきの女子生徒たちの声がまだ背中に残っている気がした。


 月庭棚の前で足を止める。

 三日月の引き出しは、さっき閉めた時のままだった。


 それを見た瞬間、胸の奥に詰まっていた息が少しだけ抜けた。


 見られていない。

 開けられていない。

 今夜の薬も、添え書きも、まだちゃんとここにある。


 フィリアはジョウロを抱えたまま、その場にしゃがみ込みそうになった。


 守れた。

 たったそれだけのことなのに、指先の震えがなかなか止まらない。


 だが、安心は長く続かなかった。

 白塔寮の生徒たちは、もう月庭まで来た。

 ノアが薬術棟の奥へ来ていることに気づき始めている。


 今日たまたま追い返せただけだ。

 明日も同じように守れるとは限らない。


 誰かが奥まで踏み込めば、月庭棚を見つける。

 三日月の引き出しを開ければ、小瓶も添え書きも見られる。

 そうなれば、ノアの不調も、月庭棚の薬も、フィリアのことも、全部噂の中へ放り込まれる。


 もう、同じやり方では置けない。


 でも、置かなければ、あの熱がまたノアを苦しめるかもしれない。


 フィリアは三日月の取っ手に触れないまま、唇を噛んだ。


 月庭の中に、蒼冷草の青い香りが細く残っている。

 その香りまで、今は誰かに見つかりそうで怖かった。


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