第8話「月庭係に用がある」
薬術科2年の教室は、朝からいつもより騒がしかった。
自分の席へ向かう前に、フィリアは扉のそばで足を止めた。
「ねえ、月庭ってノクスレイさんの係でしょう?」
「あの古い温室のことですか?」
「今朝、白塔寮の子が言っていたわ。ノア様を薬術棟の奥の方で見かけたって」
自分の名前が聞こえた。
月庭。ノア・クラウゼル。
その2つが同じ会話の中に並んでいるだけで、胸の奥がきゅっと狭くなった。
「でも、ノア様があんな暗い温室に行くでしょうか?」
「分からないわよ。薬術棟の奥なら、中庭か月庭でしょう」
「急に良い係に見えてきましたわ」
軽い笑いが起きた。
昨日まで、誰もやりたがらなかった係だった。
土の匂いが服につく。
奥まっていて面倒。
古くて暗い。
そんな理由で押しつけられていた場所が、ノアの名前ひとつで、まるで別のものになっていく。
フィリアは斜めがけの鞄の紐を握り、小さく息を吸ってから教室へ入った。
話していた数人が、すぐこちらを見る。
「あ、来ましたわ」
悪びれた様子はなかった。
むしろ、ちょうどよかったと言いたげだった。
その中心にいたのは、同じクラスのロクシーとバニラだ。
高い位置で髪を結んでいるロクシーは、いつも明るい声で笑う。だが、その笑いは相手の反応を見るためのものに近い。
隣のバニラは柔らかい声で相槌を打つ。ただ、言葉の端だけが少し冷たい。
「フィリア、月庭係って、まだほとんどあなたがやっているんでしょう?」
「あ……は、はい……」
「大変でしょう? それ、代わってあげてもいいわよ」
一瞬、意味が分からなかった。
――代わる? 月庭係を。
フィリアの胸が小さく縮む。
「あ、あの……係は1年ごとの管理で……鉢の位置とか、水の量とか、記録もあるので……」
「そんなの引き継げばいいじゃない」
「で、でも……蒼冷草は、急に扱いを変えると葉が傷みやすくて……」
「ねえ、あなた。まさか、断るの?」
声の温度が少し下がった。
断らなければならない。
だが、理由は言えない。
ノアのための薬を置く場所だから。
あの人の不調を隠す場所だから。
名乗れない自分が、唯一薬だけを届けられる場所だから。
そんなことを口にできるはずがなかった。
「ち、違……その、手は足りていると、思いま――」
「ふうん。嫌がっていたくせに、急に手放したくなくなったんだ」
周りから小さな笑いが漏れる。
フィリアは俯いた。
嫌がってやっていたわけではない。
それを押し付けられたのは私だった。
そう説明したい気持ちがあるのに、喉が固まって声にならない。
「⋯⋯まあいいわ。先生に聞いてみるから」
その言葉に、フィリアは顔を上げた。
「せ、先生に……?」
「だって、係を代わるだけでしょう。あなた一人だと大変そうだし」
親切そうな言い方だった。
だが、その目はフィリアを見ていない。
月庭の向こうにある、白塔寮の首席を見ている。
フィリアにも、それだけは分かった。
■□■□■
その後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
薬草名を写す手は動いているのに、文字が目の上を滑っていく。教師の声も遠い。
月庭棚。
ノアの便箋。
教室で向けられた視線。
そればかりが、頭の中で何度も重なって過ぎていった。
放課後、フィリアは誰よりも早く教室を出た。
今日は薬を置かない。
ノアの熱は落ち着いてきているはずだし、薬も頓服で、間も空けた方がいいと書いた。
ただ、月庭棚に何か残っていないかだけは確認したほうが良いと思った。
自分が置いた薬なのか、ノアからの返答なのかわからないが、それがあるかないかによっては月庭棚を見られたときに、言い訳の仕方が変わる。
月庭には扉が2つある。
薬術棟の廊下へ続く南側の扉と、中庭の古い植え込みへ抜ける北側の扉だ。
白い飾り棚は、そのどちらからも遠い奥の方にある。
入口から少し覗いただけでは見えない。
蒼冷草の鉢が集まる奥まった一角まで入らなければ、三日月の取っ手には気づかない。
だから、今まで守られていた。
フィリアは南側の扉へ向かおうとして、足を止める。
もし誰かが来たら、北側から抜ければいい。
そんな考えが一瞬浮かんだが、すぐに首を振る。
もし逃げたところを見られたら、何かを隠していると認めるようなものだ。
月庭係なのだから、堂々と鉢を見ていればいい。
そう自分に言い聞かせたとき、背後から声がした。
「ノクスレイさん」
振り返った瞬間、胸の奥が縮んだ。
ロクシーとバニラだった。
2人は廊下の角からこちらへ歩いてくる。
最初から、フィリアが月庭へ向かうのを待っていたように。
ロクシーがにっこり笑う。
「今から月庭でしょう? 私たちも見ておくわ」
「あ……」
「係を代わるかもしれないんだから、場所くらい知っておかないと」
フィリアはその場で固まった。
――月庭棚にはなにか残っているところまで見られてしまったら⋯⋯。
「あ……あの……今日は、その……薬草の根元を動かすので……」
「ええ、邪魔はしないわ」
「で、でも……」
「案内くらいはできるでしょう?」
逃げ道が細くなっていく。
案内すれば、2人はそのまま奥まで来る可能性も高い。
フィリアは鞄の紐を握った。
「あ、あの……月庭は、足元が濡れているところもあって……」
「だから案内してって言っているの」
ロクシーの笑顔が少しだけ深くなる。
「それとも、見られたら困るものでもあるの?」
心臓が嫌な音を立てた。
違う。
そう言いたい。
だが、声が出なかった。
ここまで怪しいと、認めているようなものかもしれかい。
――否定しなくては。
そのとき、廊下の向こうに白い上着の裾が見えた。
フィリアより先に、ロクシーとバニラが息を呑む。
「の、ノア様……?」
白塔寮の白い上着。
銀糸の縁取り。
淡い光を受けて静かに艶を帯びる白銀の髪と整いすぎた顔。
ノア・クラウゼルが、薬術棟の奥の廊下に立っていた。
その淡い青の瞳が、3人を静かに見る。
フィリアの頭の中で、朝の便箋の一文が遅れてよみがえった。
――今日、月庭係に管理の確認を取る。
もちろん、偶然ではない。
ノアは最初から、月庭係に話を聞くために来たのだ。
だが、今この場で来られると、ロクシーたちの前で月庭とノアが結びついてしまう。
助かったと一瞬思ってしまったが、別の意味で逃げ場がなくなっていく。
フィリアの喉が震えた。
ノアはさらに一歩だけ近づいてくる。
ロクシーとバニラの表情が、驚きから期待へ変わっていくのが分かった。
ノアはその視線を気にした様子もなく、短く言った。
「月庭係に、用がある」
たったそれだけだった。
それだけで、廊下の空気が変わった。




