第5話「名乗れない返事」
ノアが月庭を出ていった後、胸の前で握りしめていた鞄の紐が、指に食い込んでいることに気付いた。
――誰が置いた?
あの低い声が、まだ古い温室の中に残っている気がする。
ノアは小瓶を持っていった。
飲んだ後、少し楽になったようには見えた。
だが、本当に体に合ったのか、あとから悪い反応が出なかったのか、フィリアには分からない。
置かなければよかったのかもしれない。
未だにそんな後悔が胸の奥を少しだけ引っかいた。
だが、あの人の声を聞いてしまった。
蒼冷草の香りにすら縋るように、頭の奥の熱を少しでも逃がそうとしていた姿を見てしまった。
何もせずにはいられなかった。
その夜、フィリアはほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、ノアの横顔が浮かぶ。
苦しげに歪んだ淡い青の瞳。
薬を飲んだ後、わずかに力が抜けた肩。
そしてすぐに戻った、答えを探すような静かな目。
もし、薬が合わなかったら。
もし、あの人が薬を置いた誰かを探し始めたら。
もし、薬術科で笑われているフィリア・ノクスレイが作ったと知られたら。
考えるほど、胸の奥が苦しくなった。
□■□■□
翌日の教室は、いつもより騒がしかった。
実技試験で補習になった生徒の名前が、薬術科の掲示板に貼り出されていたからだ。
もちろん、フィリアの名前もそこにあった。
「やっぱりね」
「薬効が規定に届かないなら、補習にもなるわよ」
「基礎の魔力増幅薬であれなら、薬術科に残れるのかしら」
廊下で聞こえた声に、フィリアは視線を落とした。
反論できない。
試験で求められた薬としては、たしかに失敗だったから。
だが、今は自分の補習よりも気になることがある。
放課後になると、フィリアは人が少なくなるのを待って実験室へ向かった。
薬術科の実験室は、授業が終わった後の短い時間だけだが、自主練習用に開放されている。
使える薬草は限られていて、作ったものを誰かに渡していいわけではない。
分かっている。
分かっているのに、フィリアの向かう足は止まらなかった。
もし昨日の薬が効いたとすれば、次に使うものはもっと弱くしなければいけない。
方向性はあっていたということから、より改良が必要となるだろう。
効いたからといって、同じものを続けて飲ませていいとは限らない。
小鍋に薬液を張り、赫熱草をほんの少しだけ刻んで落とす。
赤い葉脈から色が強く出る前に火を弱め、精製した魔石粉を昨日よりさらに少なく加えた。
木べらでゆっくり混ぜると、薄い黄色の薬液に淡い光が走る。
魔力を増やす薬ではない。
眠らせる薬でもない。
ただ熱を押さえつける薬でもない。
頭の奥に残った魔力の熱を、少しずつ外へ逃がすための薬。
蒼冷草は葉脈の青が深い部分だけを細く刻み、火を落としてから静かに馴染ませた。
小鍋の中で、薄黄色の薬剤が澄んでいく。
フィリアはそれを小瓶に移し、しばらく見つめた。
また月庭棚にこの薬を置くのか。
本当に置いていいのか。
正しい答えはもう分からない。
それでも、昨日のノアの声を思い出すと、月庭までの足は止まらなかった。
□■□■□
夕方の月庭は静かだった。
古いガラスに薄い光が散り、蒼冷草の葉先に小さな水滴が残っている。
湿った土と薬草の匂いが、昼よりも深く沈んでいた。
フィリアは白い飾り棚の前で足を止めた。
中央の三日月の引き出し。
その中に、昨日持ち去られたはずの空の小瓶が戻されていた。
そして小瓶の横には、細く折られた白い便箋が置かれている。
胸が強く鳴った。
触れてはいけないもののように思えた。
だが、自分に向けられたものだと分かってしまう。
震える指で、フィリアは便箋を開いた。
『昨夜は眠れた』
最初の一文だけで、息が止まりそうになった。
『医務室の薬とは違った。眠気も術式の鈍りもない。頭の奥の熱だけが静まった』
整った文字だった。
冷静で、無駄がなく、まっすぐな筆跡。
だが、最後の一文だけは少し筆圧が強かった。
『礼を言う。助かった』
フィリアは便箋を持ったまま、その場で動けなくなった。
礼を言われたくてしたわけではない。
名乗れるようなことでもない。
それでも、誰かの苦しさを少しだけ軽くできた。
その事実が、胸の奥に小さく落ちてくる。
あたたかくて、苦しい。
どう受け止めればいいのか分からなかった。
なぜか涙が出そうになり、フィリアは慌てて唇を結ぶ。
違う。
これはフィリア・ノクスレイに向けられた言葉ではない。
ノアが礼を言っているのは、月庭棚に薬を置いた誰かだ。
薬術科で補習になり、実技ができないと笑われている自分ではない。
そう思おうとした。
それなのに、便箋を折りたたむ指は、どうしても丁寧になってしまった。
フィリアは新しい薬を月庭棚に置き、小瓶の底を毒見石へ触れさせる。
石は淡く光り、すぐ透明へ戻った。
危険な薬ではない。
それを確かめてから、小さな添え書きを置く。
『熱が上がった夜だけ。眠れた翌日は飲まないでください』
それだけで止めるつもりだった。
だが、ペン先が紙の上で迷う。
よかったです。
無理をしないでください。
少しでも楽になったなら。
どれも書いてはいけない言葉だった。
用法なら書ける。
量、間隔、飲まない日のこと。
それは薬に必要な情報だからだ。
だが、礼への返事を書けば、そこに書いた人間の気配が残る。
フィリアはそのままペンを置いた。
そして添え書きの隅に、小さな月の印だけを添える。
それ以上は、何も書かなかった。
ノアの白い便箋は、折りたたんで布鞄の内側へしまった。
胸の近くに置くと、紙一枚なのにひどく重く感じた。
そのときだった。
月庭の南側へ続く外通路から、かすかな靴音が聞こえた。
フィリアは顔を上げる。
言葉の中身までは届かない。
だが、弾んだ調子の女子生徒の声が二つ、曇ったガラスと薬草棚の向こうで少しずつ近づいてくるのは分かった。
――駄目だ。
月庭棚には、さっき置いたばかりの小瓶がある。
添え書きには用法まで残してしまった。
フィリアは急いで三日月の引き出しを閉め、棚の前から離れた。
今から外に出る時間はない。
入口近くで薬草の管理をしていることにしようと、ジョウロを取り、蒼冷草の棚の間を駆け抜ける。
その途中で、南側の扉の曇ったガラスの向こうを白い袖と明るい声が横切った。
白塔寮の女子生徒。
心臓が跳ねる。
足音が扉の前で止まった。
次いで、古い扉の金具がかすかに鳴る。
「ねえ、本当にここ?」
今度は、声がはっきり聞こえた。




