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第4話「熱に届く薬」


 遠くで月庭つきにわの扉が軋んだ。


 南側の入口が開いたのだと、フィリアはすぐに分かった。


 月庭は薬術棟の奥にある昔からある温室だ。

 扉は薬術科の教室棟へ続く南側と、裏手の古い植え込みへ抜ける北側がある。


 白い飾り棚はそのどちらの扉からも少し離れた奥に置かれていた。蒼冷草の鉢が多く並ぶ、少し薄暗い区画だ。


 だから、入口に誰かが立っただけで見える場所ではない。


 それでもフィリアの肩は跳ねた。

 三日月の取っ手の引き出しへ、反射的に手を伸ばしかける。


 やっぱり、駄目だ。


 これは授業で認められた薬ではない。

 誰かに処方したこともない。

 ノアの苦しみに近いものを考えて調薬したとはいえ、本当に合うかどうかまでは分からない。


 引き出しの中へ置いてしまった小瓶が、急に怖くなった。

 だが、足音は近づいてくる。


 湿った床石を踏む音は、南側の入口から中央の通路へ入り、薬草棚の間をゆっくり進んできていた。

 

 誰かが月庭の奥へ向かっている。


 フィリアは引き出しを何とか閉めた。


 月庭棚の前にいるところを見られたら、それだけで怪しまれる。


 息がうまく吸えない。


 次の瞬間には、近くの蒼冷草の棚の陰へ、身を滑り込ませていた。斜めがけの鞄が棚板に触れ、薬草の葉先が小さく揺れる。


 入ってきたのは、魔術科首席――ノア・クラウゼルだった。


 白塔寮はくとうりょうの白い上着に、銀糸の縁取り。午後の演習を終えたばかりなのか、昨日より顔色が悪いように見えた。


 それでも白銀の髪は乱れず、伏せ気味の睫毛の影から覗く淡い青の瞳だけが、眠れない夜を越えた人のように冴えている。


 ただ歩いているだけで、古い温室の薄い光まで彼の輪郭に集まって見えた。


 ノアは白い飾り棚の方を見ていなかった。

 視線は蒼冷草の鉢へ向いている。


 月庭の奥は、他の区画より蒼冷草が多い。

 古いガラス屋根の下で湿気が逃げにくいせいか、青い葉の香りもここだけ濃く残っていた。


 ノアはその匂いを探すように、ゆっくりと奥へ入ってくる。


 フィリアの隠れた棚のすぐ向こう側で、白い上着の裾が止まった。


 ここへ来た理由は、月庭棚ではない。

 蒼冷草の香りだ。


 蒼冷草は魔力の熱を静める薬草で、香りを吸うだけでも頭の奥に残る熱をわずかに逃がすと言われている。薬にもならないほど弱い、ただの気休めに近い効用。


 それでも今のノアには、それに縋るしかないのだと分かった。


「……変わらないか」


 低く押し殺した声だった。

 白く細い指先が蒼冷草の葉に触れかけ、そこで止まる。


「届かない。分かってはいたが……」


 声の奥には、隠しきれない焦りが滲んでいた。


「少しでいい。このままでは……」


 その言葉は最後まで続かなかった。

 ノアの視線がふと横へ流れる。


 蒼冷草の鉢の奥。

 通路から少し外れた場所にある、白い飾り棚(月庭棚)

 三日月の取っ手がついた引き出しが、指一本分だけ開いていた。


 フィリアの息が止まる。


 違う。

 まだ、置くと決めたわけではない。

 今なら引っ込めるつもりだった。


 そう言いたかった。


 だが、声を出せば、ここにいることも小瓶を置いたことも知られてしまう。


 ノアは月庭棚つきにわだなへと近づいた。


 古い蔓模様の彫られた棚の前で足を止め、三日月の取っ手に視線を落とす。


「……ここは、なんだ?」


 低い呟きだった。

 ノアは月庭棚という名だけなら聞いたことがあった。


 薬術科の古い温室には名前を伏せて薬を置く古い棚がある。

 白塔寮の上級生が、学院に残る昔話のひとつとして口にしていたことを思い出す。


 だが、それがここにあるものだとは知らなかったのだろう。


 ノアは引き出しに手をかけた。

 細い木の擦れる音が、温室の奥に小さく響く。

 中には、小瓶がひとつだけ置いてあった。


 小瓶の下には、淡く光る毒見石が埋め込まれている。危険な薬なら石が濁るはずだが、光は綺麗に澄んだままだった。


 その横には、小さな添え書きがある。

 ノアはそれを手に取った。


――『魔力の熱が強い夜に』


「……魔力の熱」


 その言葉だけが、ノアの目を留めたようだった。


 解熱薬でもない。

 睡眠薬でもない。

 魔力を抑える薬でもない。


 それでも、自分が苦しんでいた場所を、短い添え書きだけが指している。


 フィリアの喉がひゅっと狭くなった。


 飲まないで。

 思わずそう言いそうになった。


 これはまだ、誰かに出していいと胸を張れる薬ではない。試験で失敗作だと笑われた考え方をもとに、自分が勝手に調薬しただけのものだ。

 しかしそれを月庭棚に置いてしまったのも自分だ。


 ノアは小瓶を持ち上げた。


 毒見石の光をもう一度見る。

 添え書きの文字を見る。

 小瓶の中で揺れる薄黄色の薬剤を、ガラス越しの光に透かす。


 その目つきは、演習場で術式を読むときと同じだった。

 感情ではなく、必要な事実をひとつずつ拾っている。


 フィリアは棚の陰で、胸の前の布鞄を握りしめる。

 ノアがゆっくりと小瓶の栓を開けた。


 小瓶の口かな顔を近づける。

 その瞬間、ノアの眉がわずかに動いた。


「蒼冷草……いや、それだけじゃない」


 フィリアの心臓が跳ねる。


 学院中が完璧だと思っている人が、名前も知らない誰かの薬に手を伸ばそうとしている。


 それほど追い詰められている。

 それを知ってしまったのに、自分は棚の陰で息を殺すことしかできない。


 だが、ノアはほとんど躊躇うことなく、薬を口に含んだ。

 フィリアは声を出しそうになり、唇を噛んだ。


 まるで時間が止まったかのようだった。


 ノアは立ったまま、すぐには動かなかった。

 小瓶を棚の上に置き、目を閉じる。


 薄い黄色の薬が喉を通ったあと、表情はほとんど変わらない。


 失敗したのだろうか。

 効かなかったのだろうか。


 フィリアの指先が冷たくなる。

 だが、少ししてノアの呼吸が変わった。


 浅く固まっていた息が、ほんのわずかに深くなる。

 こめかみに寄っていた力が抜け、伏せていた睫毛の影も少しだけやわらいだ。


 眠らせる薬ではない。

 魔力を落とす薬でもない。


 頭の奥で回り続けていた熱の縁だけが、静かにほどけたように見えた。


「……止まった?」


 ノアの声は、ごく小さかった。

 フィリアは棚の陰で息を呑む。


 効いた。

 効いてしまった。

 嬉しいより先に、怖さが来た。


 試験では失敗作だと笑われた考え方が、ノアの苦しみに届いてしまった。


 ノアはもう一度、小瓶を見る。

 その淡い青の瞳に、さっきまでとは違う光が宿っていた。


 なぜ効いたのか。誰が作ったのか。

 もう、そこへ向かい始めている目だった。


「誰が置いた⋯⋯?」


 ただ独り言を言ったようにも聞こえなかった。

 添え書きを見ていたが、そこには名前を書いていない。


 ノアは小瓶と添え書きを丁寧に取ると、戻さなかった。そのまま手元に収める。


 ノアのために置いたものだが、それを持っていかれると秘密の一部まで一緒に持ち去られるような気がした。


 ノアはしばらく月庭棚の前に立っていたが、小瓶と添え書きを持ったまま、南側の扉の方向へ足を向けた。


 足音がゆっくりと遠ざかっていく。

 扉が閉まる音がしても、フィリアはしばらく動けなかった。


 しばらく経って大きく息を吐いた。


 名前を隠したまま、許可もない薬で。

 落ちこぼれだと笑われた自分の調薬で。


 ノア・クラウゼルの苦しみが、少しだけ止まった。


 月庭の奥には蒼冷草の青い香りだけが残っている。

 月庭棚の引き出しは、もう空になっていた。


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