第3話「月庭棚の置き薬」
翌日の放課後になっても、フィリアの耳には昨日の声が残っていた。
――この熱を止めてくれ。
リオラ学院の玄関近くでは、魔術科の女子生徒たちが弾んだ声で話していた。
「今日の演習、見た?」
「見たわ。ノア様、あれだけ続けて術式を使ったのに、最後まで少しも乱れなかったもの」
「朝から見学席を取りに行く子がいるのも分かるわ。あの方の術式展開を近くで見られるなんて、それだけで特別よ」
そこにあるのは、ただの好意ではなかった。
憧れと尊敬。
恋と呼ぶには遠すぎる、見上げるだけで満たされるような熱。
ノア・クラウゼルは、首席になる前から学院中で名を知られていた。
白銀の髪と淡い青の瞳。人形のように整った顔立ち。誰よりも静かに術式を解き、誰よりも乱れない魔術科の天才。
誰もがノアを完璧な人だと思っている。
美しくて、冷静で、誰よりも優秀で、決して弱みなど見せない人。
だが、フィリアだけは聞いてしまった。
昨日の月庭で、あの人が声を殺すように苦しんでいたことを。
斜めがけの布鞄の奥には、試験後に返された《魔力増幅薬》の小瓶がある。
これをそのまま渡すわけにはいかない。
これは試験で作った課題用の薬で、ノアのために調薬したものではないからだ。
それに緊急時でもない限り、許可のない薬を飲ませるのは良くないことだ。
分かっている。
分かっているのに、昨日の声が離れなかった。
睡眠薬では演習に響く。
魔力を抑える薬では術式まで鈍る。
医務室の薬でも止まらない。
あの言葉を聞いてしまったから、何も知らない顔で帰ることができなかった。
フィリアは翠月寮へ戻りかけた足を止め、薬術科の実験室へ向かった。
放課後の実験室には、まだ人が少なかった。
窓際の作業台では上級生が器具を片づけていたが、奥の自習用の小鍋は空いている。
フィリアは鞄から返された小瓶を取り出した。
失敗作だと笑われた《魔力増幅薬》。
薬効は足りなかった。
でも、残熱を抑える形にはなっている。
考え方は使えるはずだった。
《魔力増幅薬》は、魔力を押し上げたあと、蒼冷草で反動の熱を逃がす薬だ。
なら、押し上げる力を弱めて、熱を逃がす働きだけを残せばどうなるのか。
魔力を増やす薬ではない。
眠らせる薬でもない。
ただ体を冷やす薬でもない。
頭の奥に残る熱を、静かに逃がす薬。
フィリアは小鍋に薬液を張り、赫熱草をほんの少しだけ刻んで落とした。
赤い葉脈から色が広がりきる前に火を弱め、精製魔石粉を薬匙の先で少しだけ加える。
鍋底で沈みかけた粉が淡く光った。
木べらでゆっくり混ぜるたび、薄黄色の薬液の中に細い光が走る。
赫熱草は香りが立つ程度に。
魔石粉は薬効を身体へ乗せるための最小量。
蒼冷草は葉脈の青が濃いところだけを選び、最後にそっと馴染ませる。
小鍋の中で、薄黄色の薬剤が静かに澄んでいった。
強く効く薬ではない。
試験なら、また薬効不足と言われるかもしれない。
それでも、荒れた熱を押さえつけるのではなく、外へ逃がす形にはなったはずだった。
フィリアは薬液を、実験室に置かれている未使用の小瓶へ移した。
丸みのある肩。
細い首。
どこにでもある学院指定の硝子瓶。
これなら、誰のものか分からない。
直接渡す勇気なんてない。
名乗ることもできない。
だが、作った以上、何もしないまま帰ることはできなかった。
自分だと知られずに渡す方法。
可能性があるとしたら、あそこしかない。
□■□■□
夕方の月庭は静かだった。
古いガラス越しの光が、蒼冷草の葉先に淡く乗っている。
湿った土と薬草の匂いに、古い木の匂いが混じっていた。
広い温室の奥には、蒼冷草の鉢が所狭しと並ぶ区画がある。
その影になる場所に、白い飾り棚が置かれていた。
棚の縁には細い蔓模様が彫られ、中央の引き出しの取っ手だけが三日月の形をしている。
曇ったガラス越しの光を受けると、銀色の取っ手が少しだけ青く光った。
最初は、特別な薬草や調薬用の小瓶を置くための棚だと思っていた。
だが、月庭係になって初めて掃除をしたとき、三日月の引き出しの中に古い紙片が残っていることに気づいた。
名前を出せない不調。
寮や学科を越えた相談。
返事を置く日。
毒見石に触れさせること。
短い書き残しばかりだったが、それで十分だった。
昔は薬術科の生徒が、相談しづらい不調のために、名を隠して薬を置く習わしがあったらしい。
今ではほとんど忘れられている。
フィリアがそれを知ったのも、月庭係を押しつけられてからだった。
誰にも見られず、誰にも名を知られず、それでも薬だけを届けられる場所。
フィリアは三日月の引き出しを開け、小瓶をそっと置いた。
添える紙には、名前を書かない。
長い説明もしない。
ただ、必要なことだけを短く残す。
『魔力の熱が強い夜に』
書いてから、手が止まった。
飲んでもらえるだろうか。
怪しまれるだろうか。
勝手なことをしたと、怒られるだろうか。
それでも、書いた文字は消せなかった。
フィリアは小瓶の底を、引き出しの中に埋め込まれた毒見石へ触れさせる。
石は淡く光り、すぐ透明へ戻った。
これで危険な薬ではないことだけは証明できた。
だが、この薬が本当に症状に届くかどうかまでは、分からない。
その瞬間だった。
遠くで、月庭の扉が軋んだ。
フィリアの肩が跳ねる。
まだ帰っていなかった白塔寮の生徒だろうか。
それとも、月庭係の誰かだろうか。
ゆっくり足音が近づいてくる。
静かで、迷いのない足音。
フィリアは白い飾り棚の前で固まった。
逃げないと。
ここにいたら、見つかる。
そう思うのに、足が動かない。




