第2話「とある首席の苦悩」
月庭の扉を押すと、湿った土と薬草の匂いがふわりと流れてきた。
昼だというのに中は少し薄暗い。
天井の古いガラス越しに落ちる光はやわらかく、棚に並んだ蒼冷草や夜露草の葉先を淡く照らしていた。
フィリアはまず、入り口近くの鉢を見て回った。
遮光布はずれていない。
蒼冷草の葉も焼けていない。
水も今朝足した分がまだ土に残っている。
月庭係として最低限の確認を終えると、ようやく肩の力が抜けた。
ここなら誰にも見られずに済む。
誰にも笑われずに済む。
そう思ってフィリアは薬草棚の陰に腰を下ろした。
先生から返された試験の小瓶を膝の横に置き、昼食の包みを開く。中に入っていたのは硬いパンと小さな干し果実だけだった。
『《魔力増幅薬》なのに魔力が増えないって、それもう別の薬じゃなくて?』
間違ってはいない。
試験で求められた薬を作れなかった。
それでも熱を残す薬を出すことができなかった。
飲んだ人が夜になっても眠れず、頭の奥だけが熱を持ち続けるような薬を、どうしても完成品だと思えなかった。
フィリアは薄黄色の薬液が入った小瓶を見下ろす。
落第ぎりぎりの失敗作。
きっと、みんなにはそう見えている。
そのとき、急に月庭の扉が開いたような音が遠くで鳴った。
フィリアはパンを持ったまま固まった。
こんな時間にここへ誰かが来るなんて、思っていなかった。
反射的に蒼冷草の鉢が並んだ棚の陰に身体を縮めていると、白い上着の裾が視界の端に入った。
入ってきたのは、制服の上に《白塔寮》の白い上着を羽織った背の高い男子生徒だった。
白地に銀糸の縁取りが入り、胸元には各学科の首席だけが身につける金色の月桂冠が光っている。
ガラス越しの淡い光を受けた白銀の髪は、冷たい月明かりを編んだように静かに輝いていた。長い睫毛の下にある淡い青の瞳は、澄み切った宝石のように見える。
端正や格好良いという言葉だけでは足りない。
そこに立っただけで、この古い温室の空気まで一段澄んだように感じるほどだった。
魔術科首席――ノア・クラウゼル。
4年生でありながら5年生と6年生を押しのけ、今年の魔術科首席に選ばれた超天才。
公開演習では上級生の三重魔術を一歩も動かず、全て無効化したとの噂だ。
この学院に、その名を知らない者はいない。
憧れられ、畏れられ、遠くから見上げられる人。
フィリアが声をかけることなど、一度も考えたことのない相手だった。
そのノアが、フィリアの隠れた薬草棚のすぐ向こうで足を止めた。
――ば、ばれてる?
心臓が大きく跳ねる。
だが、ノアの視線はフィリアの方ではなく、蒼冷草の鉢へと落ちていた。
細く綺麗な指先が頭に触れる。
その指がわずかに震えていた。
「……止まれ」
低く、小さな声が落ちた。
遠くから聞いたことのあった冷静な首席の声ではなかった。押し殺しているのに、奥に焦りが滲んでいる。
「⋯⋯少しだけでもいい」
誰かに話しているわけではない、独り言。
聞いてはいけない。
見てはいけない。
分かっているのに、目を逸らせなかった。
「睡眠薬を使えば明日の演習に響く。魔力を抑える薬では術式まで鈍る。医務室で出された薬でも⋯⋯止まらない」
ノアの指が強くこめかみを押さえる。
整いすぎた横顔が、かすかに歪んだ。
「これでは……」
ノア・クラウゼルは何度も遠くから見たことがある。
公開演習では誰よりも速く術式を解き、《白塔寮》の上級生に囲まれても少しも揺るがない人だった。
完璧で、冷たくて、はるかに遠い、崇高な存在。
その人が今、声を殺すように苦しんでいる。
――見てはいけないものを見てしまった。
ノアは蒼冷草の葉に指先を近づけた。
蒼冷草は熱を静める薬草だ。
香りを吸うだけでも、頭の熱をわずかに逃がし、落ち着かせる効果があると言われている。
だが、それは薬にもならないほど弱い効用だ。
ただの気休めでしかないほどの。
ノア自身もそれは分かっているようだった。
葉に触れかけた指が止まり、苦しげな息が落ちる。
「誰でもいい⋯⋯この頭の中を、この熱を止めてくれ」
その声は願いというより、限界が零れたように聞こえた。
ノアはしばらくその場で動かなかった。
やがて、何かを諦めるように息を吐き、ゆっくりとした足取りで月庭を出ていく。
遠くで扉が閉まった音が聞こえても、フィリアはしばらく動けなかった。
胸に抱えた小瓶が急に重く感じた。
失敗作だと笑われた《魔力増幅薬》。
それは効果を弱める代わりに、残熱をできるだけ抑えようとして作ったものだった。
――眠れないほど、頭の奥で術式が回り続ける。
ノアが苦しんでいたものは、フィリアが消そうとした副作用とよく似ていた。
フィリアは小瓶を両手で包む。
自分は落ちこぼれと言われている薬術科の2年生。
相手は、魔術科首席のノア・クラウゼルだ。
勝手なことをしてはいけない。
名乗れるはずもない。
薬効がある保証もない。
それでも、あの苦しげな声を聞いてしまった。
その言葉が、蒼冷草の青い香りの中で何度も頭に戻ってくる。
フィリアは硬いパンを包み直した。
もう食べる気にはなれなかった。
月庭の中で、蒼冷草の香りが静かに続いている。
フィリアは小瓶を鞄の奥へしまい込んだ。
何もしなければ、きっと安全だ。
何かをすれば、取り返しがつかなくなるかもしれない。
それでも、フィリアには苦しんでいる人を放っておくことができなかった。




