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第19話 未開封の手紙

  

「俺宛てか」


 ノアの低い声が月庭つきにわの奥に落ちた。

 フィリアはすぐには答えられなかった。

 白い飾り棚の三日月の引き出しには、薄桃色の紙が差し込まれている。

 そこに見える文字は、たしかに『ノア様へ』だった。


 ミリエラは息を止めたように固まり、ユリスも言葉を失っている。

 ノアの淡い青の瞳が白い飾り棚へ向いた。

 外に見えている宛名の文字を見た瞬間、その目がほんの少しだけ細くなる。


 怒ったようには見えなかった。

 驚いたようにも見えなかった。

 ただ、何かを見分けたような静けさがあった。


「開けていないな」


「え……」


 思っていた問いと違って、フィリアは顔を上げた。

 責められると思っていた。

 どうしてここにあるのかと聞かれると思っていた。


 だが、ノアはただ確かめるようにこちらを見ている。


「あ……は、はい。開けていません。見えているところだけで……その、中は……」


 言葉が絡まる。


「月庭棚は名前を出せない人のための棚なので……私たちも勝手に開けてはいけないと思って……」


 声はどんどん細くなった。


 ロクシーとバニラに言ったことを、自分たちも守らなくてはいけない。

 そう思っただけなのに、ノアの前で口にすると、ひどく大げさなことを言っているような気がした。

 ノアは笑わなかった。


「分かっている」


 短い返事だった。

 フィリアは一瞬、意味が分からずに瞬きをした。


「開けた人間はそのような顔をしない」


 息が止まった。

 どんな顔をしているのか、自分では分からない。

 ただ、隠そうとしても隠せないくらい、困って、怖がって、迷っている。そういった顔なのだと思う。

 それを見られたのだと気づいて恥ずかしくなる。

 ノアは薄桃色の紙の端へ視線を戻した。


「それに字が違う」


 フィリアの胸がぎゅっと縮んだ。

 ノアの不調を見て、月庭棚に置いた小瓶。

 飲み方と注意を書いた紙。

 名前を出さない代わりに、《月葉印(つきはじるし)》だけを描いたあの添え書き。


 ノアはあの字を覚えている。


 そう分かった瞬間、白い飾り棚の前に立っているだけなのに、足元が少しふらつきそうになった。

 当たり前だが、ミリエラとユリスはノアの言葉の意味までは分からないようだった。

 だが、フィリアだけは分かってしまった。


 月庭棚に薬を置いた誰か。

 まだ名前も顔も知らないはずの誰か。

 その存在がノアの中にしっかりと残っているのだろう。

 ノアは白い飾り棚へ近づいた。

 フィリアは反射的に下がる。

 白い上着の袖が蒼冷草の青い葉の前を通った。


 ノアはすぐには三日月の取っ手には触れなかった。

 引き出しを開けることもない。

 外に出ている薄桃色の紙の端だけを見て、それからフィリアへ視線を戻す。


「取っていいか」


「あ……はい」


 答えながら、胸の奥が落ち着かなくなる。

 恋文かもしれない。

 相談かもしれない。

 罠かもしれない。

 どれでもない、ただの悪戯かもしれない。

 ノアは紙の端を摘まみ、ゆっくりと引き抜いた。


 それは封書だった。

 薄桃色の紙に、細い飾り紐が巻かれている。

 表にはやはり『ノア様へ』と書かれていた。


 ミリエラが小さく息を呑む。

 ノアは封書を開けなかった。

 表の宛名を見たあと、裏返す。

 封の合わせ目には、小さな花の印が押されていた。

 その印を見た瞬間、フィリアは少しだけ引っかかった。


 どこかで見たことがある。

 だが、思い出す前にノアは封書を手元に下ろした。


「ここでは読まない」


 低い声だった。

 ノアは月庭棚の方を見ている。

 冷静で必要なことしか言わない人。


 その印象は初めてこの月庭で見たときから変わらない。

 だが、今の言葉は誰かの事情を踏み荒らさないためのものだった。


 名前を出せない誰かのための棚。

 フィリアが守ろうとした場所を、ノアも乱暴に扱わなかった。

 そのことに、少しだけ気持ちが楽になっていた。


「棚の扱いを守ったなら、それでいい」


 ノアの声が続く。

 褒められたわけではない。

 慰められたわけでもない。

 ただ、フィリアが守ろうとしたことを、事実として認められた。

 それだけなのに、震えていた指先に少しだけ力が戻った。


「あ……ありがとう、ございます……」


 どうにか言うと、ノアは短く頷いた。

 そのまま帰るのかと思った。

 だが、ノアの視線は蒼冷草の鉢へ移る。


「昨日の続きだ」


 フィリアの背筋が跳ねた。


「えっ」


「香りの話」


 急に話が戻った。

 薄桃色の封書のことも、月庭棚のことも、まだ胸の中で暴れている。

 それなのに、ノアは昨日の言葉を覚えていた。


 自分が焦って、夢中で、言わなくてもいいところまで話してしまった言葉。

 それを、そのまま拾われている。


「あ……えっと……今日の鉢は、昨日より少し軽い香りです。でも、細く続くというより、まだ青さが戻っている途中で……」


 言いながら、また長くなりそうだと気づいた。

 フィリアは慌てて口を閉じる。

 ノアは静かに待っていた。

 待たれると、余計に困る。

 ミリエラが横で、少しだけ笑いをこらえるように口元を押さえた。

 ユリスもほんの少しだけ肩の力を抜いている。

 フィリアは顔を赤くしながら、小さく続けた。


「く、詳しくは……また、確認してから……」


「分かった」


 ノアは短く頷いた。


「では、次のときに聞こう」


 次のときに。

 その言葉だけが、胸の奥に残った。

 ノアはまた来るつもりなのだろうか。


 月庭に来られれば、秘密に近づかれる。

 蒼冷草の話を聞かれれば、また余計なことまで喋ってしまうかもしれない。

 なのに、彼が昨日の言葉を覚えていたことだけが、妙に頭から離れなかった。


 嬉しい、とは違う。

 ただ、自分の言葉が軽く流されなかったことに、どう反応すればいいのか分からなかった。


 ――そのときだった。

 中庭側の扉の方で、かすかに布が擦れるような音がした。

 扉の外、古い植え込みの陰に人影が2つあった。

 硝子越しにこちらを覗いている。


 ロクシーとバニラ。

 2人は月庭を出たあとも、すぐには離れていなかったらしい。

 中庭側の植え込みに隠れるようにして、温室の奥を見ていた。


 ノアが月庭棚から封書を受け取ったところ。

 フィリアが白い飾り棚の前に立っていたところ。

 そして、ノアがその封書を手元に収めたところ。

 その全部を見られたのだと、すぐに分かった。


 声までは聞こえていないかもしれない。

 だが、見られた絵だけで十分だった。

 ロクシーの口元がゆっくりと持ち上がる。


 バニラが何かを囁いた。

 硝子越しで、声は聞こえない。

 だが、次に何を言われるのかは分かってしまう。


 落ちこぼれのフィリアがノア様に手紙を渡した。

 そんな噂にされる。

 フィリアの喉が凍ったように動かなくなった。


 ノアも中庭側へ視線を向ける。

 淡い青の瞳が、静かに細くなった。

 月庭の中に蒼冷草の青い香りだけが残っていた。


 守ったはずの月庭棚から、別の火種が生まれようとしていた。


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