第20話 月庭に残る火種
背の高い薬草棚の影にはロクシーとバニラがいた。
中庭側の扉のそば。
奥の通路へ入る手前で、2人は息をひそめるように立っていた。
ロクシーの口元がゆっくりと持ち上がる。
フィリアの喉が動かなくなった。
ノアが月庭棚から薄桃色の封書を取ったところ。
自分が白い飾り棚の前に立っていたところ。
――見られた。
落ちこぼれのフィリアがノア様に手紙を渡した。
そんな風に広められるのだろうか。
そう思っただけで、指先から力が抜けそうになった。
ノアは薬草棚の影へ視線を向ける。
怒っているようには見えない。
ただ、さっきまで蒼冷草の鉢を見ていたときとは空気が違った。
ロクシーとバニラは何事もなかったように薬草棚の影から出てくる。
「ごきげんよう、ノア様」
バニラがやわらかく頭を下げた。
「たまたま月庭の様子が気になりましたの。中庭側の入口から入ったら、ちょうど皆さんが奥にいらしたので」
ロクシーも涼しい顔で続ける。
「お手紙を受け取られているところでしたから、邪魔をしてはいけないと思って待っていたのです」
お手紙。
その一言でフィリアの胸が冷えた。
ノアは薄桃色の封書を手元に下ろしたまま、表情を変えない。
「俺はあの棚から取っただけだ」
短い声だった。
二人の笑みがほんの少し止まった。だが、すぐに微笑みを作り直す。
「……まあ。では、フィリアさんが置いたものではないのですね」
フィリアの肩が跳ねた。
違う。自分ではない。そう言いたいのに声が出ない。
ノアは封書の表へ視線を落としただけだった。
少なくとも、今ここでフィリアが手渡したものではないと、ノアは切り分けているようだ。
ミリエラが胸の前で勉強用ノートを抱え直した。
「私も見ていました。ノア様は棚から取られました」
ユリスも静かに続ける。
「フィリアは、棚を開けないようにしていただけだ」
ロクシーの眉が少し動く。
「ずいぶん皆さんで同じことを言うのね」
「ここにいる僕らは同じものを見ていたから」
ユリスの声は平らだった。
ロクシーは面白くなさそうに唇を引いたが、バニラはまだ引かない。
「でも、不思議ですわ。ノア様宛ての封書が、どうして月庭の棚にあったのでしょう。ここは薬術科の古い相談用の棚だと聞いておりますわ」
フィリアは薄桃色の封書を見た。
封の合わせ目にあった小さな花の印。
どこかで見たことがある気がする。だが、思い出せない。
ノアはその封書を懐へしまった。
「ここでは読まない」
それ以上を許さない声だった。
バニラの目が少し細くなる。
「そうですか。月庭棚というのは、随分と大事に扱うものなのですね」
ノアは答えない。
代わりに白い飾り棚を一度だけ見た。
三日月の引き出し。
名前を出せない誰かのために残された古い棚。
ノアがその意味まで知っているのか、ただ余計なことに踏み込まないだけなのかは分からない。
だが、ここで封書を開かなかった。誰の前でも読まなかった。それだけで、フィリアが守ろうとしたものは、ぎりぎり踏み荒らされずに済んだ。
「ノア様はなぜ何度も月庭へ?」
ロクシーが甘い声で尋ねた。
「手紙ではないとおっしゃるなら、何を確認しにいらしているのかしら」
フィリアの胸が詰まる。それは聞いてほしくなかった。
ノアは蒼冷草の鉢へ視線を移す。
「蒼冷草の状態確認だ」
短い答えだった。
ロクシーとバニラが黙る。
――蒼冷草。
その一言だけでフィリアには分かってしまった。
ノアは月庭棚に新しい薬が入っていないかだけを見に来ているのではない。
この蒼冷草が、次の薬に使える状態かどうかも確かめている。
周りにはただ薬草を見に来たように聞こえる。
だが、フィリアには違う。
前に持ち帰った薬の効き目がもう薄れてきているのかもしれない。
バニラが笑みを薄くする。
「蒼冷草⋯⋯ですか」
ノアはもう答えなかった。
ただ、蒼冷草の鉢の前に立ち、通路をふさぐように位置を変える。
「用がないなら、出ろ」
静かな声。強く言い返したわけではない。
フィリアを庇う言葉でもなかった。
ノアにとって必要なのは蒼冷草の状態。
それを邪魔する相手には興味がないだけ。
だからこそ、ロクシーとバニラはそれ以上踏み込めなかった。
「し……失礼いたしました」
バニラが先に頭を下げる。
ロクシーもわずかに遅れて会釈した。
「では、私たちはこれで……」
2人は中庭側の扉から出ていった。
足音が遠ざかるまで、誰も声を出さなかった。
守れたのだろうか。
それとも、余計に目立ってしまったのだろうか。
分からない。
ただ、ロクシーとバニラは何も言えないまま引いた。
ノアは蒼冷草の鉢の前で足を止める。
「続き」
「えっ」
フィリアの声が裏返った。まだ続くのか。
今、この空気で。
ノアは薄桃色の封書のことなど、もう切り分けたような顔をしていた。
いや、切り分けたのではない。
自分に必要なもの以外を最初からあまり見ていないのかもしれない。
「⋯⋯この鉢だ」
「あ……はい。でも、まだ薬に使えるほど安定しているわけではなくて……葉先の青が戻っている途中なので、明日の朝の湿り方を見ないと……」
言ってから、また喋りすぎかけていることに気づく。
フィリアは慌てて口を閉じた。
ノアは蒼冷草の鉢とフィリアを順に見る。その視線に、背筋が強張る。
また薬のことを話しすぎたと思うが、ノアは問い詰めなかった。
「……明日の朝だな」
「あ……」
覚えられてしまった。
月庭にまた来る理由を自分で渡してしまった気がする。
理由は分かった。
ノアがここへ来るのはもちろんフィリアに会うためなどではない。
そう思えば安心できるはずなのに、胸の奥は少しも軽くならなかった。
フィリアは管理ノートの端を握った。
ノアはそれ以上言わず、中庭側とは別の通り道へ向かった。
白い上着の裾が蒼冷草の青い葉の前で揺れる。
扉が閉まった後、ミリエラが小さく息を吐いた。
「……今の、すごかったね」
フィリアは返事ができなかった。
ロクシーたちは退いた。
ノアは封書を持っていった。
月庭棚は勝手に開けられずに済んだ。
それなのに胸の奥は落ち着かない。
薄桃色の封書には見覚えのある花の印があった。
ロクシーとバニラは完全に諦めた顔ではなかった。
そして、ノアの不調はたぶん少しずつ戻り始めているのかもしれない。
月庭の中に残った蒼冷草の青い香り。
その香りが今日は少しだけ細く長く続いていた。




