第18話 引き出しの隙間
誰かが月庭棚を使った。
本当の相談なのか。
ロクシーたちの罠なのか。
それとも、ノアに近づきたい誰かの手紙なのか。
まだ何も分からない。
「フィリアさん?」
ミリエラが不安そうに声をかける。
フィリアは慌てて顔を上げた。
「あ……えっと……紙の角が、見えていて……」
「紙?」
ミリエラが白い飾り棚へ近づきかける。
フィリアは反射的に手を伸ばした。
「あ、待ってください」
また強い声が出てしまった。ミリエラの足が止まる。
「あ……ご、ごめんなさい。さっき、ロクシーさんたちに触らないでって言ったところなので……」
「うん。そうだったね」
ミリエラはすぐに下がった。
薄桃色の紙の角は見えている。
端に書かれた『ノア様へ』という文字も、見えてしまっている。
だが、見えてしまったことと引き出しを開けて確かめることは違う。
「私たちも、勝手に開けない方がいいと思います。ここは、昔から名前を出せない相談のために使われていた棚みたいなので……係だからって、中を見ていい場所ではないはず、です」
言いながら、胸の奥がきゅっと縮んだ。
自分も同じだ。
ノアの便箋を見つけたとき、本当は何度も迷った。
薬を置くために引き出しを開けた。
返事がないか確かめたこともある。
でも、月庭棚を守ると言うなら、自分に都合のいい時だけ開けていいことにはならない。
「うん。私たちが勝手に見たら、ロクシーさんたちと同じになっちゃうもんね」
「はい……」
フィリアは小さく頷いた。
それが正しい。
正しいはずなのに、胸の奥は落ち着かなかった。
――ノア様へ。
その文字が見えてしまっただけで、何も知らなかったことにはできない。
「でも、どうするの?」
ミリエラが白い飾り棚を見つめたまま言った。
「ノア様宛てなら、本人に知らせた方がいいのかな。それとも、レナリース先輩に確認する?」
フィリアは答えられなかった。
レナリースに確認するのはきっと正しい。
だが、月庭棚の出入りを細かく調べられたら、ノアの症状のことも、薬のことも、少しずつ近づかれてしまうかもしれない。
フィリアは管理ノートを胸に抱え直した。
「……このまま置いておこう」
ユリスが言った。
「ここで僕たちが開けたら、誰かに責められた時に説明できない。罠でも相談でも、開けない方が安全だ」
「安全……」
フィリアは小さく繰り返した。
ユリスらしい言い方だった。
優しい言葉ではないのに、少しだけ呼吸が楽になる。
さっきロクシーたちに向けられた言葉が、まだユリスの中に残っている気がした。
薬術科の男子だから。
細かいから。
息苦しいから。
そんな言葉をぶつけられても、ユリスは月庭係としてここに立っている。
フィリアにはそれが少しだけ頼もしく見えた。
「もし本人が来たら……どうする?」
ミリエラの声が少しだけ高くなった。
その答えを探すより先に、遠い南側の扉の金具がかすかに鳴った。
フィリアの肩が跳ねる。
ロクシーたちが戻ってきたのかと思った。
だが、薬草棚の向こうから見えたのは白塔寮の白い上着だった。
銀糸の縁取り。
淡い光を受ける白銀の髪。
ノア・クラウゼルが月庭の南側から入ってきていた。
時間が止まったように感じた。
ミリエラが息を呑む。
ユリスも言葉を止める。
ノアは入口近くの鉢を横目に見ながら、奥の区画へ歩いてくる。
足音は静かだった。
だが、近づくほどに、フィリアの胸の音だけが大きくなる。
フィリアは反射的に白い飾り棚の前へ半歩出ていた。
隠すつもりではなかった。
読ませないつもりでもなかった。
ただ、薄桃色の紙とノアの視線の間に、体が勝手に入ってしまっていた。
ノアの淡い青の瞳がフィリアを見る。
それから、白い飾り棚へ移った。
三日月の取っ手。
その隙間から覗く、薄桃色の紙。
そこに見える『ノア様へ』の文字。
ノアは少しだけ目を細めた。
低い声が、月庭の奥に落ちる。
「⋯⋯俺宛てか」
フィリアは答えられなかった。
胸の前で握った指先が震えていた。




