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第14話 月庭係への用事

  

 翌日の放課後が近づくにつれて、フィリアは授業の文字をうまく追えなくなっていた。


 昨日、ミリエラとユリスと一緒に月庭つきにわを見た。

 入口側の鉢も、奥の蒼冷草も、遮光布も、白い飾り棚の周りも。


 2人は笑わなかった。

 押しつけてもこなかった。

 フィリアの言葉を勉強用ノートに書き留め、分からないところをちゃんと聞こうとしていた。


 それは、たぶん良いことだ。

 月庭の薬草にとっても。

 月庭係にとっても。


 だが、白い飾り棚のことを思い出すたび、胸の奥が落ち着かなくなる。


 三日月の取っ手がついた小さな引き出し。

 誰にも知られず、誰にも名乗らず、薬だけを届ける場所。


 もうそこは、フィリア一人だけが見ている場所ではなくなっている。


 最後の授業が終わると、フィリアは鞄を抱えて教室を出た。

 廊下には今日も寮対抗戦の話をしている生徒たちがいる。


 各学科の華やかな首席の名前が行き交う中で、フィリアの足だけが少し重かった。


 薬術棟の奥へ進み、旧校舎寄りの渡り廊下を抜ける。

 月庭に近づくほど人の声は遠ざかり、湿った土と薬草の匂いが濃くなっていった。


 扉の前には、もうミリエラとユリスがいた。


「あ、フィリアさん」


 ミリエラは昨日と同じ小さな勉強用ノートを胸に抱えている。

 ユリスは銀縁眼鏡の奥で、いつもより少しだけ落ち着かない目をしていた。


「今日は奥の区画の続きでいいかな。昨日の遮光布のところ、もう一度見たいの」


「あ……はい」


 ミリエラは本当に学ぼうとしている。

 ユリスも記録を写すだけではなく、判断の理由まで聞こうとしている。


 それは分かる。

 分かるのに、今日はうまく息が整わなかった。


 フィリアは月庭の扉を押した。


 古いガラス温室の中は、薄い光と薬草の匂いで満ちていた。

 入口側の鉢を簡単に見てから、3人は奥の蒼冷草の区画へ向かう。


 白い飾り棚は、今日も変わりなくそこにあった。

 中央の三日月の取っ手は閉まっている。


 フィリアはそこを見ないようにして、蒼冷草の鉢の前にしゃがんだ。


「こ、この鉢は、昨日より香りが少し落ち着いています。遮光布を少し下げたので、葉先の青も戻りかけていて……」


 声がいつもより細く、緊張して裏返りそうになる。

 ミリエラが隣にしゃがみ、葉先を覗き込んだ。


「本当だ。昨日より青い気がする」


「土はまだ湿っています。だから今日は水を足さなくても……」


 その時だった。


 月庭の南側の扉が、静かに開いた。


 ミリエラの手が止まる。

 ユリスが管理ノートから顔を上げた。


 フィリアは振り返る前に、誰が入ってきたのか分かってしまった。


 白塔寮はくとうりょうの白い上着。

 銀糸の縁取り。

 ガラス越しの淡い光を受ける白銀の髪。


 ノア・クラウゼルが、月庭の入口に立っていた。


 こんなところへ、急に。


 胸の奥が一瞬で詰まる。

 昨日までなら、ノアが来てもフィリア一人だけが知っていればよかった。


 だが今は違う。


 ミリエラもいる。

 ユリスもいる。

 白い飾り棚も、蒼冷草の鉢も、全部同じ場所にある。


 ノアは温室の中を見てから、静かに言った。


「月庭係に少し確認したい。今いいか」


 低く落ち着いた声だった。


 ミリエラが息を呑む。

 ユリスの背筋が伸びる。

 フィリアは立ち上がろうとして、膝に力が入り損ねた。


「あ……は、はい……」


 自分でも情けないほど小さな声だった。

 だが、ノアの淡い青の瞳はまっすぐこちらを捉えた。


「フィリア・ノクスレイ」


 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が強く鳴った。


 ミリエラが驚いたようにこちらを見る。

 ユリスも一瞬だけフィリアとノアを見比べた。


 ノアはその反応に構わない。

 ただ必要な相手の名前を呼んだだけ、という顔をしている。


「奥区画の蒼冷草だ。香りが少し変わった。遮光布を動かしたか」


「あ……はい。昨日、少しだけ下げました」


「理由は?」


 質問は短い。

 褒めるためでも、責めるためでもない。

 ただ答えを確認している声だった。


 フィリアは持っていたノートを落としそうになり、慌てて腕に抱える。


「え、えっと、南側の光が強くて……葉先の青が薄くなっていたので。水を足すより先に、日を少し弱めた方が良いと思いました。土の根元には湿りが残っていたので、水を増やすと香りが重くなるかもしれなくて……」


 言いながら、声がだんだん小さくなる。

 ノアは遮らなかった。


 遮らないまま、フィリアの言葉だけを拾うように聞いている。


「香りが重くなると、効き方も変わるのか」


 効き方。


 その言葉に、フィリアの息が止まった。


 ノアは蒼冷草の香りを、頭の奥の熱を冷やすために求めていた。

 薬を置く前から、彼はこの月庭へ来ていた。


 今の質問は月庭の薬草管理としては自然だ。

 だが、フィリアには別の意味が混じって聞こえてしまう。


 答えれば、どこまで分かっているのかを知られてしまう。

 黙れば、月庭係として不自然だ。


 ミリエラもユリスも、こちらを見ている。

 ノアの淡い青の瞳も、静かに答えを待っている。


 答えを探す間にも、蒼冷草の青い香りが細く喉へ入ってきた。


 フィリアは管理ノートを抱えたまま、声を探した


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