第15話 細く続く香り
答えを探す間にも、蒼冷草の青い香りが細く喉へ入ってきた。
フィリアは管理ノートを抱えたまま、ノアの淡い青の瞳を見返すことができなかった。
ミリエラは蒼冷草の葉先を覗き込んだ姿勢で固まり、ユリスのペンも止まっている。
「あ……は、はい。蒼冷草は、香りが尖っている時と、湿気を含んで重くなっている時で、薬にした時の出方が少し変わります。強く冷やしたい時は尖った香りでもいいんですが……その、熱をゆっくり逃がしたい時は、香りが細く続く状態の方が……」
そこまで言って、フィリアは息を止めた。
――言い過ぎた。
今の言い方は、ただの薬草管理よりも踏み込みすぎている。
ノアは蒼冷草の香りを、頭の奥の熱を冷やすために求めていた。薬を置く前から、この月庭へ来ていた。
だからこそ、フィリアには今の質問がただの管理確認に聞こえなかった。
答えれば答えるほど、自分がどこまで知っているのかを差し出してしまう気がする。
「あ、あの……一般的には、です。薬草の状態で効き方の端が少し変わることがあるので……月庭係としては、香りも見ておいた方がいいと、思って……」
声がどんどん小さくなる。
ミリエラは目を丸くしていた。
ユリスは慌てて管理ノートの端へ何かを書き足している。
ノアだけは表情をほとんど変えなかった。
ただ、フィリアの言葉をひとつずつ拾うように聞いてから、小さく頷く。
「香りが細く続く状態か」
短い声だった。
「覚えておく」
たったそれだけだった。
褒められたわけではない。
優しくされたわけでもない。
だが、笑われなかった。遮られなかった。余計なことを言うなとも言われなかった。
必要な情報として受け取られた。
それだけなのに、フィリアはどう返せばいいか分からなくなった。
「あ……はい……」
ノアの視線がフィリアの後ろへ流れる。
白い飾り棚のある方角だ。
指先が冷たくなる。
だが、ノアは棚へ近づかなかった。
その場で足を止め、今度はミリエラとユリスへ目を向ける。
「ここは今、3人で見ているのか」
ユリスが先に答えた。
「はい。昨日から正式に3人で確認することになりました」
「そうか」
短い返事だった。
その一言だけで、フィリアの胸がまた苦しくなる。
ノアは知った。
月庭係が3人になったことを。
白い飾り棚の周りに、フィリア以外の目が増えたことを。
ノアは少し考えるように目を伏せた。
それから、もう一度フィリアを見る。
「蒼冷草の細かい変化は、君に聞けばいいのか」
空気が止まった気がした。
ミリエラが小さく息を吸う。
ユリスも管理ノートを抱えたまま、静かにこちらを見る。
フィリアは首を横に振ろうとした。
違う。
自分だけが詳しいわけではない。
そんなふうに見られたくない。
だが、レナリースにも言われた。
月庭の奥が荒れていなかった理由は、この記録だと。
「あ……その……一番詳しい、というほどでは……でも、奥の蒼冷草は、私が見ることが多かったので……」
「分かった」
ノアは淡々と言った。
「必要があれば、また確認する」
それだけ言うと、ノアは踵を返した。
助けに来たわけではない。
優しい言葉をかけに来たわけでもない。
ただ、蒼冷草の状態と月庭係の管理を確かめに来ただけ。
分かっている。
それなのに、フィリアの心臓はまだ速く鳴っていた。
「あ、あの……」
自分でも驚くほど小さな声がこぼれた。
ノアの足が止まる。
白い上着の裾が、蒼冷草の青い葉の前で揺れた。
「何だ?」
「その……蒼冷草を確認するなら、葉先だけじゃなくて、香りの出方も……見た方がいいと思います」
言い出してから、自分の声が少し裏返ったのが分かった。
ここで止めればよかった。
ただの月庭係の説明で済むところだった。
だが、蒼冷草のことを考え始めた途端、フィリアの頭の中で言葉が勝手に並び始めていた。
「そ、蒼冷草は……ただ冷やす薬草ではなくて……熱を押さえつけるというより、外へ逃がす働きが強いんです。だから、香りが尖っている時は一瞬すっと冷えるんですが、湿気を含みすぎて香りが重い時は、効き方が鈍くなって、奥まで届きにくくなることがあって……」
薬の作用や効き方の話になると、止め方が分からなくなる。
小さいころから母に教わってきたこと。
夢中になるくらい好きなこと。
だからこそ、誰に話しているのかも、どこまで話していいのかも、頭から抜け落ちてしまうことがあった。
「今の奥区画みたいに葉先の青が戻りかけている時は、むやみに水を足すより、遮光布を半目分だけ戻して、香りが軽くなるまで待った方がよくて……それで、熱を逃がしたいなら、強く冷やすより、香りが細く続く状態の方が負担が少ないと思います。急に冷やすと、熱が逃げたように感じるだけで終わってしまうこともありますので……」
そこまで言ってから、フィリアはようやく周りが静まり返っていることに気づいた。
ミリエラのペンが止まっている。
ユリスは管理ノートから顔を上げたまま固まっていた。
ノアの淡い青の瞳も、まっすぐこちらを見ている。
顔と頭が一気に熱くなった。
やってしまった。
完全に喋りすぎた。
「あっ、ち、違っ……いえ、その、一般的な本に書いてある薬草の話で……月庭係として、あの、そういう確認も必要かなって……!」
最後の方は声が完全に裏返っていた。
よりによってノア・クラウゼルの前で、蒼冷草の効き方を延々と話してしまった。
ミリエラは目を丸くしている。
ユリスも管理ノートを持ったまま、まだ動かない。
ノアは表情をほとんど変えなかった。
ただ、フィリアの言葉を確かめるように、静かに頷く。
「……強く冷やすより、香りが細く続く状態」
低い声が、今度はゆっくり繰り返した。
「分かった。それも覚えておく」
その言い方が、フィリアの言葉をそのまましまい込むようで、胸の奥が跳ねた。
ノアはそれ以上何も言わず、南側の扉へ向かった。
扉が閉まるまで、誰も声を出さなかった。
しばらくして、ミリエラが小さく息を吐く。
「……ノア様、フィリアさんの名前、普通に呼ぶんだね」
フィリアの肩が跳ねた。
「えっと……前に、月庭の確認で……名前を……」
説明になっていない。
自分でも分かる。
ユリスは少し考えたあと、管理ノートへ目を落とした。
「自分に必要な相手の名前を覚えているだけ、なのかもしれない」
「そ、そうです。たぶん、それだけです」
フィリアは慌てて頷いた。
そうだ。
それだけだ。
ノアは必要だから名前を呼んだ。
月庭の奥区画を確認したいから、フィリアに聞いた。
薬を置いた誰かを探しているからではない。
フィリア自身を特別に見ているわけでもない。
そう思おうとするのに、さっきの言葉が耳に残っている。
香りが細く続く状態。
短く、冷静で、何でもない返事。
でも、自分が夢中でこぼしてしまった言葉だけを拾って、覚えてくれた。
ミリエラが勉強用ノートを開いた。
「今のも書いておいていいかな。蒼冷草は、香りが細く続く状態が大事……?」
「あっ、えっと、それは状況によるので……いつでもそうとは限らなくて……」
慌てて訂正すると、ミリエラは少しだけ笑った。
「じゃあ、次にそこも教えて」
ユリスも小さく頷く。
「香りが尖る時と重くなる時の違いも、次に聞きたい」
「あ……はい……」
フィリアは返事をしながら、白い飾り棚の方を見ないようにした。
ノアは月庭係が3人になったことを知った。
蒼冷草の管理を、フィリアがよく見ていたことも知った。
それに、フィリアが蒼冷草の効き方を妙に深く知っていることまで、少しだけ知られてしまった。
だが、まだ届いていない。
月庭棚に薬を置いた誰かと、目の前のフィリア・ノクスレイは、まだノアの中でつながっていない。
それが怖くて、少しだけほっとして、それでも胸の奥が落ち着かない。
月庭の青い香りの中で、フィリアは管理ノートを開いた。
今日の記録を書くためにペンを持つ。
だが、今日あった一番大きなことだけは、管理ノートのどこにも書けなかった。




