第13話 三人で見る月庭
翌日の放課後、薬術科の掲示板前はいつもより人が多かった。
中間実技試験の補習日程と寮対抗戦の告知が貼り出されていたからだ。
補習対象者の欄にはフィリア・ノクスレイの名前もある。
先日も見たはずなのに、こうして自分の名前が上がるたび、胸の奥が沈んでしまう。
フィリアが作った《魔力増幅薬》は薬効が規定に届かなかった。
補習になるのは当然だ。
だが、掲示板の横では別の話題が弾んでいた。
「寮対抗戦、今年は白塔寮が強すぎるでしょう。だってノア様がいるもの」
「黒剣寮なら、レオンハルト・グレイヴ様でしょう? 去年の模擬戦では上級生を3人抜きしたって聞いたわ」
「紅星寮も油断できませんわ。去年、大型召喚で会場を騒がせた人が今年の6年生らしいので」
「今年の蒼壁寮もすごい殿方がいらっしゃると噂を聞いております」
「薬術科はどうかしら。6年にはレナリース先輩、5年には首席のエリザ先輩がいるけれど、寮対抗戦は毎年種目が変わりますから、まだ分かりませんわね」
そんな話し声を聞きながら掲示板の前を通り過ぎようとしたとき、横から声を掛けられた。
「フィリア・ノクスレイさん、補習日程はちゃんと見ました?」
ロクシーの声だった。
フィリアの足が止まる。
「名前、ちゃんとあったわね」
バニラがやわらかい声で続ける。
「月庭係も3人でしっかり管理することになったのでしょう? 隠れて好きにできる時間も減っちゃうかしら」
隠れて。
その言葉が胸の奥に引っかかった。
だが、言い返しても声が震えるだけだ。
フィリアは小さく頭を下げるようにして、その場を離れた。
薬術棟の奥へ進むと、廊下の声はすぐに遠ざかっていった。
旧校舎寄りの渡り廊下を抜ける頃には、空気に湿った土と薬草の匂いが混じり始める。
月庭の扉の前にはミリエラとユリスが立っていた。
ミリエラはノートを2冊抱えている。
薄茶色の髪を肩の横でゆるくまとめ、フィリアを見ると少しだけ背筋を伸ばした。
ユリスは銀縁眼鏡を指で直し、細いペンを持ち替える。
昨日よりは落ち着いて見えるが、管理ノートを持つ指にはまだ力が入っていた。
「あ……フィリアさん」
ミリエラが先に口を開いた。
「今日は奥の方まで見るんだよね」
「は、はい……レナリース先輩が、3人で確認するようにって……」
自分が指示する立場ではない。
そう思うのに、2人の視線がこちらへ向く。
ユリスが控えめに頷いた。
「昨日の蒼冷草の話からでいいだろうか。葉先の青が薄いとき、水ではなく遮光布を見るというところをもう一度確認したい」
ちゃんと聞こうとしている。
こちらをからかう声ではなかった。
それなのに、フィリアは喉の奥がきゅっと狭くなった。
「あ、あの……私の見方が全部正しいわけではないので……」
「ああ。それでも僕らよりは分かっている」
ユリスはまっすぐこちらを見て言った。
責めるでも褒めるでもなく、事実を確認するような声だった。
フィリアは少しだけ視線を落とし、月庭の扉を押した。
古いガラス温室の中は昨日と同じように湿った土の匂いで満ちていた。
だが、今日は静けさが違う。
自分以外の足音がある。
ミリエラが入口近くの鉢を覗き込む気配がある。
ユリスが管理ノートに日付を書く音がある。
誰にも笑われない場所。
誰にも見られずに済む場所。
そう思っていた月庭が少しずつ自分だけの場所ではなくなっていく感じがした。
「まず、入口側は……風が入りやすく、水が足りない時が多いです。土の表面だけじゃなくて、指を少し入れて確認します」
フィリアは通路脇の鉢の前にしゃがみ、土の縁を指先で押した。
「表面が乾いていても、中が湿っている時は足しません。逆に表面がしっとりしていても、根元の方が軽い時は少しだけ足します」
「私、表面だけ見てた……」
「あっ、でも入口側は、それでも分かりやすいので……」
「奥は違うんだね」
ミリエラが真剣な顔で鉢を覗き込んでから、手元の小さなノートに何かを書き込んだ。
フィリアは思わず、その手元を見てしまう。
「その……ノート?」
「あ、これは管理ノートじゃなくて、勉強用のノート」
ミリエラは少し恥ずかしそうに、薄い表紙を指で押さえた。
「昨日、レナリース先輩に言われて思ったの。私、月庭係なのに、月庭のことを全然見てなかったんだなって。だから、まずはちゃんと覚えようと思って」
「勉強用……」
「うん。フィリアさんの説明、すごく分かりやすいから。あとで見返せるようにしたくて」
そんな風に言われると思っていなかった。
笑われたわけではない。
押しつけられたわけでもない。
自分の言葉を誰かがちゃんと書き留めようとしている。
それが何だか温かく胸に落ちてくる。
フィリアは視線を鉢へ戻した。
「あ……えっと、でも、私の見方が全部正しいわけでは……」
「でも、今のは私には分からなかったよ」
ミリエラは素直にそう言った。
隣でユリスも別の紙へ短く書き足している。
「僕も書いておく。管理記録には結果を書くけど、判断の仕方は別に覚えた方がよさそうだ」
ユリスは眼鏡を押し上げ、土の縁をじっと見る。
「表面だけでは分からない⋯⋯か。確かに入口近くの鉢と奥の鉢では乾き方が違う」
2人ともフィリアを試しているわけではなかった。
ただ、本当に知ろうとしている。
月庭に人が増える。そのことはまだ少し怖い。
だが、この2人は月庭を奪いに来たわけではないのかもしれない。
そう思った瞬間、自分の気持ちが少し楽になった。
次は奥の蒼冷草の区画へ向かう。
葉の青い香りが濃くなるにつれて、白い飾り棚が視界の端に入った。
三日月の取っ手。
見ないようにしようとしても、どうしても目が向いてしまう。
今はミリエラとユリスがいる。
引き出しの中を確認することはできない。
「蒼冷草は葉先を見ます」
フィリアは声が震えないように気をつけながら、棚の前に並んだ鉢を指した。
「青が薄くなっているときは、日が強すぎる場合があるので、水を増やす前に、遮光布の角度を見た方が良いかもしれません。逆に、青が濃すぎて香りが重いときは、湿気がこもっていることが多いので……風通しを少しだけ変えます」
ユリスのペンが素早く動く。
「香りも記録に入れるのか」
「は、はい。蒼冷草は香りが変わると、薬効の出方も少し変わるので……」
言ってから、また喋りすぎたかもしれないと思った。
だが、ミリエラは笑わなかった。
むしろ眉を寄せて、蒼冷草の葉に顔を近づけている。
「たしかに入口の鉢と全然違う匂いがする……」
そのとき、ユリスがふと白い飾り棚へ目を向けた。
「この棚は?」
フィリアの指先が止まる。
白い飾り棚は蒼冷草の区画のさらに奥にある。
古い蔓模様が彫られ、中央には三日月の形をした銀色の取っ手がついた小さな引き出しがある。
昨日の管理ノートにも書いてしまっている。
古い飾り棚周辺、湿気がこもりやすい。
木部の表面のみ布で拭く。
引き出し内部には毒見石がある。不用意に触らないように注意。
「そ、そこは……月庭に古くからある、棚らしいです。湿気がこもりやすいので、木の表面だけ拭きます。引き出しの中には毒見石もあるので、不用意に触らない方が……」
「確かに昨日、レナリース先輩もそう言っていたな」
ユリスは頷いた。
それ以上、踏み込もうとはしなかった。
フィリアは胸の奥で小さく息を吐く。
「あれ、三日月の取っ手なんだね」
ミリエラが白い棚を少しだけ見上げて言った。
「あ……はい。古い月庭の習わしで、あの棚だけは昔から残っているみたいです」
「月庭って、名前も棚も月なんだね」
「は、はい……たぶん、夜に薬草を見ていた頃の名残、なのでしょうか……」
答えながら、フィリアは三日月の取っ手を見ないようにした。
引き出しは閉まっている。
今日は開けられない。
ノアから何かが戻されているのか。
それとも何もないのか。
気になるが怖い。
それに、今この場で確かめれば、ミリエラとユリスに見られてしまう。
「フィリアさん?」
ミリエラの声にフィリアははっとした。
「あっ、す、すみません……次は、遮光布を見ます」
フィリアは白い飾り棚から一歩離れ、蒼冷草の鉢へ戻った。
遮光布を少し下げる。
葉先の青が戻りかけているものは、光を弱めすぎないよう半分だけ戻す。
湿り気の強い鉢は今日は水を足さない。
ミリエラは勉強用ノートに何度も書き、ユリスは管理ノートへ判断の理由を短くまとめていく。
2人が月庭を知ろうとしている。それはきっと良いことだ。
だが、白い飾り棚の近くに人の目が増えていくたび、胸の奥で小さな不安が膨らんでいった。
誰にも知られず、誰にも名乗らず、薬だけを届ける場所。
その場所が、少しずつ自分だけの秘密ではなくなっていく。
フィリアは管理ノートを胸に抱え直した。




