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第12話「月庭の管理ノート」

 

『月庭係の扱いを、正式に確認するわ』


 昨日、レナリースに言われた言葉が、授業の間もずっと胸の奥に残っていた。

 何をどのように確認されるのだろうか。


 最後の授業が終わると同時に、フィリアは管理ノートを持って教室を出た。


 薬術棟の奥へ進み、旧校舎寄りの渡り廊下を抜けて一階に降りる。

 人の声が遠ざかるにつれて、空気が少しずつ湿った薬草の匂いへ変わっていった。


 管理ノートには水やりの時間、遮光布の位置、土の湿り方、葉の色、鉢の向きなど気付いたことを書いている。

 それを薬術科次席のレナリースに直接見られると思うと、指先に少し力が入った。


 月庭に着くと、扉がすでに開いていた。

 中から、レナリースの声が小さく聞こえてくる。


「これが月庭の管理記録?」


 その声は温室の空気を少し冷やすものだった。

 フィリアは開いた扉を抜けたところで足を止めた。


「――日付、水やり1回、異常なし。これだけでは何を見て、何を判断したのか全く分からないわ」


 入口近くの薬草棚の前に、レナリースが立っていた。


 淡い金茶の髪を背中へ流し、翠月寮すいげつりょうの外套を羽織っている。

 胸元には『次席』を示す、銀色の月桂冠のバッジがついていた。

 姿勢は少しも崩れず、手元のノートへ視線を落としている。


 その前にいる2人を見て、フィリアは薬術科2年の月庭係を決めた日のことを思い出した。


 3つのクラスから1人ずつ集められ、担当日だけを決めた日だ。

 1人は女子生徒。

 薄茶色の髪を肩のあたりでゆるくまとめ、両手で薄い管理ノートを抱え込んでいる。

 たしか、名前はミリエラ。

 顔合わせの日も、ほとんど喋らずに頷いていた気がする。今は整った制服の襟元を指で押さえたり離したりしていて、叱られることに慣れていないというより、何を言えばいいのか分からず困っているように見えた。


 もう1人は男子生徒。

 銀縁眼鏡の奥で視線を落とし、細い記録用紙を指先でまっすぐ持っている。

 こちらは、ユリスという名前だった。

 入口付近の掃除や水やりの担当日を確認したきり、会話らしい会話はなかった。

 表情は大きく崩れていないが、紙の端だけが少し曲がっていた。


「あなたたちが入口や通路周辺の鉢を見ていたことは、記録から分かるわ」


 レナリースはミリエラのノートを閉じずに言った。


「でも、奥の蒼冷草の区画がほとんど空白になっている。日によっては『異常なし』とだけ書かれているけれど、葉先、土、遮光布、風通し、どれを確認したのかも分からない」


 ミリエラはノートを抱える手に力を込めた。


「す、すみません……入口や通路のものは水も、乾いていたら足していて……でも、奥は、状態が悪くなっていなかったので……」


「悪くなっていなかった理由を確認した?」


 ミリエラは答えられなかった。

 レナリースはユリスの記録用紙へ視線を移す。


「ユリス。あなたの記録も同じね。南側の棚と通路脇の鉢は見ている。でも、奥の記録がなさすぎる」


「……はい。奥はいつも整っていたので、誰かが見ているのだと」


「誰か、ではないでしょう」


 レナリースの声が少しだけ低くなる。


「月庭係は3人いる。自分が見ていない場所を、誰かが見ているはずだと思って済ませるなら、係を置く意味がないわ」


 ミリエラが俯いた。

 ユリスも視線を落とす。


 フィリアは扉のそばで管理ノートを持つ手に力が入った。


 怒られている。

 だが、2人はロクシーやバニラのように笑っていない。

 フィリアを押しのけようとしているわけでもない。


 ただ、本当に分からないまま、奥を誰かに任せてしまっていた顔だった。


「フィリア・ノクスレイ」


 レナリースの声がこちらを向いた。


 ――名前をすでに調べられている?


「は、はい……!」


 フィリアは肩を跳ねさせ、慌てて近くへ寄る。


「来たわね。早速だけど、管理ノートを見せて」


 フィリアは持っていた月庭の管理ノートを渡す。

 何度も開いてきたせいで、表紙の角が少し丸くなっている。

 レナリースは無言で受け取った。


 しばらく沈黙の中、ページをめくる音が月庭の中に落ちていく。


 最初の数枚を見たとき、レナリースの眉がわずかに動いた。

 次のページへ進み、その指が止まる。


「……蒼冷草、奥区画7番。葉先の青が薄い。南側の遮光布を半目分下げる。土の表面は乾いているが、根元に湿りが残るため水は足さない」


 レナリースが、書かれた文字をそのまま読み上げた。


「夜露草、棚2段目。葉裏に白い粉。病変ではなく乾き。翌朝まで様子を見る。風通しを少しだけ増やす」


 ミリエラがぽかんとした顔でフィリアを見ている。

 ユリスの眼鏡の奥の目も、ノートへ吸い寄せられていた。


 レナリースはさらにページをめくる。


「古い飾り棚周辺、湿気がこもりやすい。木部の表面のみ布で拭く。引き出し内部には毒見石がある。不用意に触らないように注意した」


 白い飾り棚。

 その言葉が出た瞬間、フィリアの息が少し浅くなった。

 三日月の取っ手。小さな引き出し。

 ノアが薬を持ち帰り、便箋を残した場所――月庭棚。


 だが、レナリースはそこへ深く踏み込まなかった。

 一度だけ温室の奥へ視線を投げ、すぐにノートへ視線を戻す。


 レナリースはもう一度数ページを見返した。


「……どうなっているの」


 責める声ではなかった。

 ただ、状況を測りかねている声だった。


「月庭の奥が荒れていなかった理由はこの記録ね。あなたが一人でここまで見ていたの?」


 フィリアは視線を落とす。


「あの……管理というより、気が付いたことを、書いていただけで……」


「それで済む量ではないわ」


 褒められているのか、叱られているのか分からない。

 フィリアは何も言えず、鞄の紐をぎゅっと握った。

 レナリースはノートを閉じ、ミリエラとユリスへ向き直る。


「ミリエラ。ユリス。あなたたちが悪意で押しつけたとは言わない。月庭が——弱い立場の生徒に、面倒な係が回りやすいことも知っているわ」


 2人の顔が強張る。


「でも、分からない場所を分からないままにして、誰かが見てくれているから大丈夫だと思うのは違う。薬草区画の管理は、空欄を作っていい仕事ではないわ」


「……はい」

「……その通りです」


 ミリエラの声が小さく落ち、ユリスも呟くように言う。

 レナリースはフィリアへノートを返した。


「明日から、月庭は3人で見る。フィリアの記録を写すだけでは意味がないわ。なぜそう判断したのかを、しっかり3人で確認しなさい」


「3人で……?」


 フィリアの手の中で、管理ノートが少し重くなる。


「フィリア・ノクスレイ。あなた一人に担当を戻すつもりはないわ。教えるのも、確認するのも、係の仕事のうちよ」


「あ……は、はい……」


 フィリアはノートを胸に抱えた。


 レナリースが温室を出た後、月庭に残った3人の間には気まずい静けさが残っていた。

 湿った土の匂いと、蒼冷草の青い香りだけがゆっくり広がっている。


 最初に口を開いたのは、ミリエラだった。


「あの……フィリアさん」


 薄茶色の髪を揺らして、ミリエラは小さく頭を下げる。


「私、奥まで見ていないのに、ちゃんと見ているみたいな記録にしていたわけじゃないの。でも、結果的にあなたに任せきりにしていたと思う。……本当にごめんなさい」


 ユリスも眼鏡の位置を直し、少し遅れて頭を下げた。


「僕も、分からないところをそのままにしていた。奥の蒼冷草の見方も、遮光布の加減も知らない。明日から、教えてもらってもいいだろうか」


 謝られることに慣れていなかった。

 フィリアはどう返せばいいか分からず、ノートの端を指で押さえる。


「あ……えっと……私も、全部ちゃんとできていたわけでは……お二人も水やりなどやってくれていましたし」


 声が細くなる。

 それでも、2人は茶化さずに待っていた。


 フィリアは小さく息を吸う。


「で、でも……蒼冷草は、葉先の青が薄くなったら、日が強すぎることがあります。水を増やすより先に、遮光布の角度を見た方がいいです。根元に水が残りすぎると、香りが濁るので……」


 言い終えてから、少し喋りすぎたかもしれないと思った。


 ミリエラが目を丸くする。

 ユリスは慌てて記録用紙を持ち直した。


「今の、ノートに書いておいてもいい?」


「あっ……はい」


「なるほど。僕はそこからすでに分かっていなかった」


 からかわれてはいない。

 見下されてもいない。


 そのことが逆に落ち着かなくて、フィリアは胸の前で管理ノートを抱え直した。


 管理が一人ではなくなる。

 それは、月庭の薬草にとってはきっといいことだ。


 だが、温室の奥にある月庭棚。

 誰にも知られず、名乗らず、必要な人に必要な薬を届けられる場所。


 この月庭(温室)に人が増える。

 その事実だけが、蒼冷草の匂いの中で静かに重くなっていった。


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