第11話「翠月の次席」
翌朝、薬術科2年の教室はいつもより騒がしかった。
フィリアは扉の前で足を止める。
「昨日、ノア様があの子の名前を呼んでいたのよ」
「フィリア・ノクスレイ、って」
「月庭係ってだけで、どうして名前まで覚えられているのかしら」
胸の奥がきゅっと縮んだ。
昨日、月庭へ続く廊下で、ノア・クラウゼルは確かにフィリアの名前を呼んだ。
だが、それは必要だったから呼んだだけだ。
月庭係に用があったから、名前を確かめただけだ。
フィリアは胸の前で一度手をぎゅっと握り、小さく息を吸ってから教室へ入った。
視線が集まる。
「あ、来ましたわ」
ロクシーが机に頬杖をついたまま笑った。
後ろでバニラも口元を押さえている。
「ねえ、フィリア・ノクスレイさん」
わざとらしく、フルネームで呼ばれる。
フィリアの肩が小さく跳ねた。
「あ……な、何……ですか?」
「すごいじゃない。ノア様に名前を覚えられているなんて」
「私たちの名前はお聞きにもならなかったのに、不思議よね」
「ち、違……います……」
声が細くなる。
ノアは2人に興味を示さなかった。
名前も聞かなかった。
ただ、月庭係として必要な相手であるフィリアだけを見ていた。
その事実が、2人には気に入らないのだろう。
「月庭のことを私たちも見ておかないとね」
バニラが笑う。
「係を代わるかもしれないんだもの。あなた一人で抱え込むのもよくないでしょう?」
「あ、あの……係は……その、すぐ代わるものでは……」
「大丈夫。すでに先生にも相談してあげるわ」
優しい言い方だったが、目は笑っていなかった。
ノアが来る場所。
そこを、自分たちの目で確かめたいだけだ。
フィリアは俯き、手を握りしめた。
月庭には、ノアが誰にも見せたくない不調があった場所だ。
それを言えるはずがない。
そのとき、教室の扉が開いてマルセル先生が入ってきた。
「席につきなさい。朝から何を騒いでいるのです」
ざわめきが少し引く。
フィリアは助かったと思いながら席についたが、背中に刺さる視線は授業が始まっても消えなかった。
◇◆◇◆◇
放課後、フィリアは誰よりも早く教室を出た。
今日は薬を置かない。
ノアの熱は落ち着いてきているはずだし、薬は間を空けた方がいい。
ただ、月庭棚の引き出しだけは確認しておきたかった。
昨夜の添え書きがまだ残っているのか、それともノアが持っていったのか。
あるいは、また何か返事の便箋を置いているのか。
分からないままにしておくのが怖かった。
フィリアは薬術棟の奥を抜け、旧校舎寄りの渡り廊下を越えた。
広い中庭の一角に、古いガラス温室が静かに建っている。
普段なら誰も見向きもしない場所だ。
だが今日は、その静けさまで信用できなかった。
月庭の扉を開けると、湿った土と蒼冷草の匂いが流れてきた。
温室の中はいつも通りで、葉先に残った水滴が光を反射している。
フィリアは入ってきた扉の方を一度振り返り、来ていないことを確認してから奥へ急いだ。
白い飾り棚はどちらの扉からもすぐには見えない奥まった位置にある。
蒼冷草の鉢が多く並ぶ区画の――さらに奥。
月庭棚の小さな引き出しは、今日も静かに閉じていた。外観的には、特に変わったところはなさそうだ。
だが、指先が震えた。
フィリアは銀色の取っ手に触れ、そっと引き出しを開ける。
置いた薬と折った添え書きは、そのまま残っていた。
ノアはまだ来ていないのかもしれない。
あるいは、もう必要ないと判断したのかもしれない。
ほっとしたような、少しだけ胸が沈むような、変な気持ちだった。
そのとき、月庭の南側の入口の方向から音がして、思わず肩が跳ねる。
――誰か来た?
北側へ抜ければ、ここから逃げることはできるだろう。
だが、もし慌てて出ていくのを見られたら。
それは何か怪しいことをしていたと認めるようなものだ。
月庭係なのだから、薬草の世話をしていればいい。
そう言い聞かせて、フィリアは白い飾り棚から離れ、近くに置いてあったジョウロを手に取った。
奥の蒼冷草の区画から広い通路へ出たところで、ちょうど南の扉が開いた。
入ってきたのは、ロクシーとバニラだった。
2人の視線はまっすぐフィリアを見つめる。
「やっぱり、ここにいた」
ロクシーが楽しそうに言う。
バニラは月庭の中を見回しながら、ゆっくり歩いてきた。
好奇心というより、隠し場所を探すような目だった。
「ねえ、フィリア。今は何をしていたの?」
「あ……えっと……薬草の、確認を……」
「ふうん」
ロクシーの視線が、ジョウロから斜めがけの鞄へ移った。
「じゃあ、その鞄は?」
息が止まった。
鞄の中にはまだ取り出していないノアの便箋があるかもしれない。
きちんと整理しておくべきだった。
あの綺麗な便箋に、整った文字。
誰が書いたかなんて、一目瞭然だろう。
「こ、これは……私物、なので……」
「なぁに、見られて困るものがあるの?」
「ち、違います……でも、鞄は……」
フィリアは鞄を抱え込んだ。
ロクシーの目が細くなる。
「昨日から変よね。ノア様に名前を呼ばれて、月庭係を代わる話をすると嫌がって、今度は鞄も見せられない」
「もしかして、ノア様から何かいただきましたの?」
バニラが甘い声で言う。
フィリアはすぐに首を横に振った。
「ち、違……そんなこと、絶対、ありません……」
「じゃあ、見せられるでしょう?」
一歩、近づかれる。
逃げたい。
だが、逃げたら追われる。
ここで鞄を渡したら、守れなくなる。
フィリアは喉が震えるのをこらえ、ジョウロを胸の前で抱えた。
「だ……だめ、です……」
思ったより小さな声だった。
それでも、言えた。
ロクシーの表情が冷える。
「何それ。偉そうに」
「月庭係って、そんなに特別な立場だったかしら」
2人の視線が、フィリアの背後へ流れた。
温室の奥。
白い飾り棚のある方角。
フィリアは反射的に体をずらした。
「あ、あの……奥は、今、水をやったばかりで……足元が濡れていて……」
「またそれ?」
「あなた、私たちを奥へ行かせたくないだけでしょう」
バニラが一歩踏み出す。
そのとき、温室の奥側で扉が静かに開いた。
教室側ではない。
旧校舎の方へ抜ける、普段あまり使われていない北側の扉だ。
湿った空気がわずかに揺れ、別の足音が入ってくる。
「⋯⋯そこで何をしているの」
低すぎず、高すぎない、よく通る声だった。
ロクシーとバニラがそちらを見る。
フィリアもジョウロを抱えたまま顔を上げた。
奥側の通路から、翠月寮の上級生用外套を着た女子生徒が歩いてきていた。
深い翠の縁取り。
すっと伸びた背筋。
淡い金茶の髪を後ろでまとめ、整った顔には笑みが全くなかった。
薬術科の最終学年。
次席、レナリース・オルフェン。
今年の終わりには卒業試験を控え、薬術科の総合順位で首席と争っている立場の上級生だ。
周りの揉め事に興味がある人ではない。
だが、薬術科の区画が荒れることだけは嫌う人だった。
レナリースの視線が、ロクシーとバニラを静かに射抜く。
「今の月庭の担当は、あなたたち?」
2人は言葉に詰まった。
「あ……いえ、私たちは……」
「係を代わるかもしれないので、見ておこうと……」
「係を見直す話そのものは、おかしくないわ。実際に管理が偏っているなら、確認は必要よ」
ロクシーの顔が少しだけ明るくなる。
だが、レナリースの声はそこで低くなった。
「でも、噂を追って担当者を囲むのは別の話。正式な確認もなく薬草区画を見て回るなら、それは管理ではなく詮索よ」
「私たちは、ただ……」
「本当に係を代わりたいなら、薬草管理室を通しなさい。鉢の位置、水分記録、触っていい薬草と駄目な薬草。その確認もないまま奥へ行くなら、薬術科の学生としてはかなり軽率ね」
声は荒くない。
だが、逃げ道を塞ぐような冷たさがあった。
フィリアはジョウロを抱えたまま、息を止める。
助かった。
そう思った次の瞬間、レナリースの視線がこちらへ向いた。
「あなた」
「は、はい……」
「管理ノートを持って、明日の放課後すぐにここへ来なさい」
心臓が大きく鳴る。
レナリースは静かに続ける。
「月庭係の仕事を、正式に確認するわ」
守られたのか。
疑われたのか。
フィリアには分からなかった。
ただ、ロクシーとバニラの視線が、さらに鋭くなったことだけは分かった。




