第7話
そしてついに、魔界の境界に辿り着いた。
空気が変わった。
魔素が濃く、肌にまとわりつくような重さを感じた。
だが、以前よりは明らかに薄くなっていた。
「魔王がいなくなった影響か……息がしやすい」
マサは魔界の森へと足を踏み入れた。
木々は黒く、葉は赤紫に染まっていた。
地面には淡い紫の苔が広がっていた。
静かすぎる。
鳥の声も、魔獣の咆哮も聞こえなかった。
マサは立ち止まり、周囲を鋭く見回した。
「殺されたくなければ出てこい」
ガサガサ……
草むらが揺れ、単眼の少女が姿を現した。
両手を軽く挙げ、震える指で降参の意を示した。
「……どうして、分かったの?」
瞳が不安げに揺れていた。
その少女は通称サーチアイ。
かつて魔王軍の監視幹部補佐だった。
魔界全土を見渡すほどの視界を持つと恐れられていた。
マサは軽く肩をすくめ、口元に薄い笑みを浮かべた。
「お前には手を焼いていたからな。魔界に入った瞬間から、ずっと見張ってたんだろ?」
サーチアイは小さく頷いた。
「……はい。貴方の動きを、ずっと追っていました」
マサはゆっくりと息を吐き、穏やかに続けた。
「だったら話は早い」
彼は一歩近づき、サーチアイの眼をまっすぐ見つめた。
その視線は威圧的ではなく、ただ真剣で、どこか疲れた色を帯びていた。
「頼みがある。魔王城まで、連れて行ってくれないか」
サーチアイの瞳がわずかに揺れ、眉を寄せた。
声は小さく、警戒と戸惑いが混じっていた。
「……なぜ、私が?」
マサは淡々と答えた。
「この辺り一帯の幻影を解ける僧侶が、もういないんだ」
サーチアイはしばらく沈黙した。
森の静けさが、二人の間に重くのしかかる。
突然、少女の瞳が鋭く光った。
空間がグニャリと歪み、マサの視界が一瞬で変わった。
――そこに、仲間たちの姿が浮かび上がった。
リリィが弓を構え、いつもの優しい笑顔のまま、静かに矢を放つ。
「あなたはもう用済みよ」
鋭い矢が胸を深く貫き、熱い痛みが爆ぜた。
次にガンドルフが巨体を揺らし、斧を大きく振りかぶる。
「金と地位のためだ」
斧が無慈悲に振り下ろされ、骨が砕けるような衝撃が全身を駆け巡った。
セリーヌは魔力の光を手に浮かべ、冷たく微笑んだ。
「最初から信用してなかったわ」
光が黒く歪み、焼けるような激痛が体を蝕んだ。
血まみれの自分を見下ろす三人。
嘲笑う声が重なり、耳元で冷たく囁く。
「「「さよなら、勇者様」」」
――幻影だった。
サーチアイが、震える息を吐きながら囁いた。
「……これで、動けなくなるはず……」
マサはゆっくりと目を閉じ、深く息を吸ってから、再び開いた。
「……それは、もう見たよ」
幻影がパチンと弾けるように消え、歪んだ空間が静かに元に戻った。
「俺には、もう効かない」
サーチアイの眼が大きく見開かれ、体が小刻みに震え始めた。
「……嘘……そんな……」
シュッ……
マサは一瞬で間合いを詰め、サーチアイの頭をポンと優しく叩いた。
少女の体がビクッと震えた。
「待てよ」
マサは穏やかな声で続け、彼女の目をまっすぐ見つめた。
「俺たち、争う理由はもうないだろ?」
サーチアイは眼を伏せ、唇を軽く噛んだ。
長い沈黙が流れ、彼女の肩がわずかに上下した。
やがて、小さく頷く。
「……わかりました」
マサは柔らかく微笑み、安心したように息を吐いた。
「よかった」
そう言って、彼女の小さな手をそっと握った。
「じゃあ、連れて行ってくれ」
サーチアイは小さく頷き、目を閉じた。
低い、静かな声で、古い魔界語の呪文を紡ぎ始める。
「ズドラヴ・クルム・プレネス……テネブル・スムラク」
呪文が森の空気に溶け込み、周囲の木々がサワサワと揺れた。
空間がグニャリと歪み、地面がズズズッと低く震え始めた。
視界がぐるぐると回り、二人の姿が淡くぼやけていく。
次の瞬間、空間がグニャリと歪み、二人の姿がパッと消えた。
森に残ったのは、風にそっと揺れる葉ずれの音だけだった。
――視界が一瞬ぐるりと回り、足元が冷たい石の感触に変わっていた。
埃っぽい空気が鼻を突き、崩れた壁の隙間から微かな魔素の光が青白く漏れ出していた。
薄暗い空間に、重い静けさが満ちている。
マサは小さく息を吐き、剣の柄にギュッと手を置いた。
「……転移魔法、やっぱり便利だな」
彼の瞳に、決意の光が静かに宿った。
唇がわずかに歪み、胸の奥で闘志が音もなく燃え上がる。
「さて……ここからが、本当の始まりだ」




