第56話
秋の風がヒュウッと冷たく頰を撫で、村全体を優しく包み込んでいた。
畑の収穫はすっかり終わり、黄金色の穂の残骸と乾いた葉が地面をカサカサと覆っていた。
風に舞った葉が、時折くるくると回りながら勇者邸の縁側に落ちてくる。
勇者邸は、何度目かの改築を終えたばかりだった。
太い丸太を何層にも重ね、隙間を苔と土で丁寧に埋め尽くし、冬の厳しい風も音もほとんど通さないほど頑丈に仕上がっていた。
中では、みんなが暖かな炉の火を囲んで杯を傾けていた。
蜂蜜酒の甘い香りが部屋に満ち、笑い声が絶え間なく響いている。
リリィがいたずらっぽく目を細めて笑った。
「これでどれだけ騒がしくても、外には絶対漏れないわね」
彼女の言葉に、部屋にいたみんなが一瞬顔を見合わせ、くすくすと笑いを漏らした。
ガルが杯を掲げて大声で応じる。
「なら、遠慮なく飲むぞー!」
リリィの笑顔がさらに深くなり、杯を軽く振って皆を促した。
そんなある日の午後。
紫灰色の空に、黒い影が近づいてきた。
リアと、傍らに控える吸血鬼の参謀ダミアン。
リアは黒いドレスの上に厚手の冬マントを羽織っていた。
ふわりと村の入り口に降り立った。
マントの裾がひらりと舞い、瞳が村全体を優しく、どこか懐かしげに見渡した。
マサはちょうど薪を運ぶところだった。
巨大な丸太を片肩に担ぎ、軽く手を振った。
「おぉ、リアじゃないか。冬支度が心配になって見に来たのか?」
リアは小さく鼻を鳴らし、視線を村の奥へと移した。
村全体が、冬を迎えるための最後の準備で賑わっていた。
ドラゴン姿のリースが空を低く飛び、巨大な木材を爪でしっかりと掴んで運んでいく。
時折、翼の羽ばたきがゴオッと風を起こし、地面の落ち葉を舞い上げた。
エルフたちは屋根の上に登り、苔や土を丁寧に塗り込みながら、笑い声を上げて仕上げに追われていた。
「もう少し右側を厚くして!」
「風が強いから、しっかり押さえてね!」
そんな賑わいの片隅で、ダミアンがゆっくりと一歩前に出た。
彼の瞳が鋭くマサを射抜く。
声は低く、抑えきれない感情が滲んでいた。
「……リア様。もう我慢なりません」
リアが軽く手を上げ、静かに制した。
「ダミアン、下がっておれ」
「いいえ、リア様……この男は、魔王軍の敵です。魔王を討ち、魔界を荒らした勇者です。我々は……」
ダミアンの声がわずかに震えていた。
怒りか、悔しさか、それとも長年の恨みと複雑な思いが混じった何かか――拳をギュッと握りしめ、肩が小刻みに上下している。
マサは手にしていた丸太を、静かに地面に下ろした。
軽く息を吐き、穏やかな声で応じた。
「リア、いいぜ。ちょっとだけなら、相手してやるよ」
ダミアンの目が一瞬赤く光り、牙がギラリと覗いた。
シュンッ!
吸血鬼特有の超速で距離を詰め、爪が鋭く伸び、赤い魔力が渦を巻き始めた。
しかし――
ゴオオッ!
突然、空から大きな影が落ち、風圧が周囲の落ち葉を一気に吹き飛ばした。
ドスンッ!
銀色の巨大な前足が地面を叩き、ダミアンをガッチリと押し潰すように押さえつけた。
ドラゴン姿のリースが、両腕に薪の束を抱えたまま、片方の前足でダミアンを抑え込んでいた。
彼女は少し首を傾げ、いつもの調子でマサに尋ねた。
「マサ、薪用の木はどこに運べばいい?」
マサは苦笑いを浮かべ、村の北側を指差した。
「あー、あそこの薪小屋の横に積んでくれ」
「分かった」
リースは軽く翼を羽ばたかせ、薪を抱えたまま優雅に空へ舞い上がり、飛び去っていった。
地面に残されたダミアンは、リースの前足の跡にぺったりと埋もれ、土まみれの顔で呆然と秋空を見上げていた。
リアは小さくため息をついた。
でも、唇の端が自然と緩み、どこか嬉しそうな表情が浮かんでいた。
「……相変わらず、賑やかね」
マサは苦笑いを浮かべながらしゃがみ込み、ダミアンの顔を覗き込んだ。
「生きてるか? 大丈夫か?」
ダミアンは土に埋もれたまま、悔しげに顔を歪めて睨み返した。
「……不意打ちとは、卑怯な……!」
マサは肩をすくめて、軽く笑った。
「魔族が卑怯とか言うのかよ?」
ダミアンが歯を食いしばり、体をよじって這い上がろうとしたが、ピクリとも動けない。
「……黙れ! この村は魔界の領土だ。貴様がここで好き勝手していること自体が、許されざる侮辱だ!」
「まぁまぁ、そんなに怒るなよ。リースも悪気はないんだぜ」
ダミアンはさらに藻掻き、土を掻き散らしながら叫んだ。
「くそっ……! リア様、この男は……!」
その情けない姿を見て、リアが最初はくすくすと、堪えきれずに笑い出した。
やがてそれが大きな笑いに変わり、
「はははははっ……! ダミアン、……情けない姿ね」
瞳に涙を浮かべ、息を切らしながら呟いた。
「あはは……こんなに笑ったの、久しぶり……!」
マサはしゃがんだまま、ダミアンの肩にそっと手を置いた。
穏やかな声で、静かに言葉を続けた。
「ダミアン。俺がやってきたことは、確かにお前らにとっては許しがたいことだったと思うよ。だから、謝罪なんてしない」
ダミアンが土まみれの顔を上げ、鋭く睨み返した。
「貴様っ……」
「だからさ、いつ殺しに来てもいいよ。それで気が晴れるならな。でも……お前の主人はリアだ。リアの気持ちだけは、汲んでやってくれよな」
マサは軽く息を吐き、掌に淡い緑の光を集めた。
「ライトヒール」
回復魔法が優しくダミアンの体を包み込み、土に埋もれた擦り傷や打撲を静かに癒していった。
光が消える頃、ダミアンの体はほぼ元に戻っていた。
ダミアンはゆっくりと体を起こし、複雑な表情でリアの方に視線を移した。
リアは小さく微笑み、軽く手を振って促した。
「ほら、視察するわよ」
マサは立ち上がりながら、土を払い、穏やかに提案した。
「せっかくだから、俺が案内するよ」
リアは少し迷ったような顔をしたが、すぐに頷いた。
「……ええ、お願いするわ」




