4章 配達人
封筒に入れて、ポストへ持っていく。
持っていく前に宛名を書く。差出人は書かない。自分が発送したものがどういった経路を辿り、どこへ届いているのか。届いていないのか。男にはわからなかった。
送り始めた最初から、それは変わっていない。
宛名を書いて、切手を貼って、ポストに入れる。
男は沢渡といった。三十七歳。独身。郊外のアパートに一人で住んでいる。
個人トレーダーを自宅でしながら、ずっと生活している。売る、と買うの指示を出す時間以外は、そのままネットを眺めているか、ハマりすぎない程度にゲームをしていることが多い。常に相場をマルチモニタで確認して、利鞘を稼げる瞬間は取引に集中する。
売る。買う。売る。買う。買う。買う。売る。
資産はこの十年以上でずっと増え続けているし、生活を続けていくことに不安はない。昨日も、今日も、そして明日も。生きていくことそのものを順調さの基準にするなら、沢渡の人生は確かに「順調」だった。
◇
沢渡がぽっくりボタンを最初に送ったのは――三年前だった、と記憶している。
相場を見ながらネットを流し読みしていて、都市伝説の話を読んだ。押せば苦しまずに、自然死できるボタン。なぜか、興味を惹かれて、その夜はトレードの合間に関連情報をいくつか検索した。死をもたらす……不吉なはずなのに、不思議とわくわくした。
それから数日経った朝、自宅ポストに白い箱の入った封筒が届いた。
「押すと、楽に逝けます」とメモが付いていた。
誰かのイタズラかも、とはなぜか思えなかった。捨てられないまま、しばらく部屋に置いた。自宅にボタンがあると思うと、より興味がかき立てられた。ネットでボタンをめぐる様々な書き込みを片っ端からかき集めた。誰かが作った怪しげな情報まとめサイトを読みふけった……読めば読むほど、ボタンは本物に思えてきた。
自分に使うことを考えると、やはり怖さが先に来る。
そんなとき、ネットで「もう終わりにしたい」……そう書き込んでいる人がいた。
この人に送ったら、有効な使い方をしてくれるだろうか?
脳裡に、そんな考えがよぎった。
調べ物は得意だった。投資の為に、企業の信用情報を調べるときのように、書き込み主の情報をかき集めた。断片情報の数々から、正確な住居まで特定するのは骨が折れた。でも、恋人の足取りでも追うように、沢渡は熱心に情報を探し、情報を組み合わせ、読み解いた。自分でも驚くほど、夢中だった。熱中した。
そして、判明した書き込み主の住所に、宛名を書いて、沢渡はボタンを送った。
それがどんな結末になるかは知らない。
ただ、自分がもっているよりは、適した持ち主だろう、という程度の、ぼんやりとした意志だった。
送った翌々日。
ポストにまたボタンが届いていた。
メモもなく、ただ白い箱がころん、と。
まるで「もっと送ってみろ」とボタンに言われたように感じた。
◇
これまで、いくつ箱を送っただろうか。二十か……三十個くらいだろうか。
相手は毎回、それまで関係したことのない人間を選んだ。ネットの書き込み、ニュースで目にした名前、駅の階段で聞いた会話の主、電車の中で隣に座っていた人間。
そして箱を送ると、翌日には次の箱が届いた。自分に箱を送っている者がいるはずだが、その姿は全く見えないままだったし、探そうと思ったこともなかった。毎日届く「ボタン」が沢渡の行動を肯定してくれている何よりの証明だと感じられた。疑問を感じることもなく、箱をただ送り続けた。
送り先を選ぶ基準は、自分でもうまく説明できない。
死のにおいというか、オーラというか、説明のできない感覚があって、ただそれに従っただけだった。
直接、死を求めている発言や書き込みをした者はわかりやすかったが、無くても困ることはなかった。暑い日に長袖を着た女性にすれ違って、なんとなくこの人だ、と感じて送った。憔悴してふらふらと病院から出てきた少年にも送った。直接死を求める声を聞かなくても、街を歩けば、ネットを眺めれば、誰かから死がにおった。
善意か、と聞かれたら、わからない。
悪意か、と聞かれても、やはりわからないとしか言えない。
◇
その日、ポストを開けると、見覚えのない封筒が入っていた。
差出人の名前はない。宛名には、自分のマンションの住所と、沢渡自身の名前が書いてある。筆跡は、クセがなく、誰のものともわからない。
部屋に持ち帰って開けた。中に白い小箱が入っていて、中にプラスチックのケース、その中の赤いボタン。
――押すと、楽に逝けます。
書き慣れた……見慣れたメモも入っていた……が、そのメモには書き足しがあった。
――あなたに
沢渡はボタンを見た。
自分の手で送ってきたものが、戻ってきたのだろうか。
自分は自宅を宛先に書いた覚えはない。送った覚えももちろんない。自分宛に送るなんてことを考えたことは……ないはずだった。
自分に送った記憶がないのに、ボタンが届いた。
誰が送ってきたのか。
考えながら、ボタンの箱をテーブルの上に置いた。
◇
箱をテーブルに置いた瞬間、周囲の光景が、突然なだれ込むように目に入ってきた。
部屋はまるで廃屋のように荒れ果てていた。
床はゴミまみれで、全てのものがホコリをかぶってうっすら灰色じみていた。
封筒の入った段ボールがいくつも積まれていた。空箱もあった。箱の隅にある「百個入り」の文字が目に入った。
台所にうち捨てられたように転がる、食器はいつから使っていないのかもわからない。皿や茶碗の表面には、汚れが模様のように固まっていた。
沢渡は、目眩と吐き気を覚えて、ほこりとゴミまみれの部屋の中で思わずしゃがみこんだ。
二十や三十なんてもんじゃなかった。
一体どれだけのボタンを自分が送り続けてきたのか。具体的な送り先の名前が一つも思い出せなかった。それなのに、送ったらしい事実だけはある。
戻ってきたボタンも……自分が送って、忘れているだけなのだろうか。
自分の記憶にない行動の痕跡を見つけることが、昔からときどきあった。
前夜、確かに消したはずの電気が点きっぱなしになっていた。買ったばかりのジャムがいつのまにか開封されていた。いつも同じ場所に置いていたワイヤレスイヤホンが、いつの間にか片方だけ消えた。
思い出せるのは断片的で、小さなことばかりだが、確かにそういうことがあった……はずだ。
――自分で封筒を用意して、自分宛にボタンを送ったとしたら、なぜなのか。
沢渡はしばらくボタンを眺めた。
ボタンは何も語らない。ただそこにある。
自分はとても多くの人に送ってきた。送られた人間が何を感じたか、何をしたか、何も知らない。使ったかどうかも、役に立ったかどうかも、知らない。
沢渡は立ち上がって、部屋をもう一度見回した。人が住んで、生活している部屋には見えなかった。酷い喉の渇きを覚えた。台所に行って蛇口を捻ったが、どれだけ回しても水は出てこなかった。
ポストの方に目を向けた。また「送られるべきボタン」が届くのだろうか。
――それとも、これが最後のボタンなのだろうか。
もう、自分の仕事は終わったのだろうか。
テーブルの上のボタンを見た。
喉が渇いていた。
本当に、死のにおいを放っていたのは、誰だったのか。
沢渡はじっと、ボタンを見つめた。
◇
老朽化したアパートが一棟、取り壊された。
とっくに無人になり、あとは解体を待つだけの建物とされていた。
重機による解体作業は酷く適当で、敷地にはアパートの廃材と、大量に残されたゴミ、生活雑貨の残骸が積み上がった。
よく見ると、その中には、大量の封筒が混ざっていた。
しかしそれに誰も目を留めることはなく、廃材といっしょくたにされて、古びたトラックによって運び去られていった。




