3章 先に逝く方が
夫の正一が台所でコーヒーを淹れている。
豆を挽く音、湯を注ぐ音、それからフィルターを捨てる音。二十六年聞いてきた音だから、目を閉じたままでも何をしているかわかる。もうすぐ「できたよ」と声をかけてくるか、黙ってそのままカップを持ってくるか。曜日や天気や、前の晩のことによって、だいたい決まっている。
今日は黙って持ってくる日だった。
瞼の向こうで気配がして、サイドテーブルにカップが置かれる音がした。
「ありがとう」と言うと、「うん」と返ってきた。
布田さちは目を開けて、ベッドの上でゆっくり上体を起こした。カーテンの隙間から秋の朝の光が細く入っていて、正一の輪郭をうっすら縁取っている。休日の朝、起きるのが億劫なときは、いつもこうして正一がコーヒーを持ってきてくれる。二十六年で、何百回と繰り返してきた。
カップを両手で包んで、一口飲んだ。
「今日、どうする」と正一が言った。窓際に立って、外を見ている。
「どうしよっか」
「どこか行くか」
「どこでもいいよ」
どこでもいい者同士が集まっても、どこへも行き先は決まらない。そのうち正一がカーテンを少し開けて、いい天気だな、と言った。散歩にしよっか、とさちが言うと、正一は頷いて窓から離れた。
こうして二人の休日は始まる。
◇
朝食は、さちがトーストを焼いて、正一がスクランブルエッグを作った。役割が決まっているわけではないけれど、いつの間にかそうなった。正一のスクランブルエッグは少し固めで、昔からのさちの好みとは微妙にずれていた。でも二十六年、一度も言わなかった。言うほどのことでもないと思っているうちに、いつの間にか固めも好きになった。
テーブルに向かい合って座った。
「今日、拓也から連絡来てた」と言った。
「拓也から? 何て」正一が返す。
「来月、彼女を連れてくるって」
「ほんとか……やっと連れてくる気になったか」
正一がスクランブルエッグをフォークで集めながら口元を緩めた。
「写真だけ見せてもらったことあるんだけど、かわいい子よ」
「ほう」
「明るくてしっかりしてる子だって。看護師さんらしいよ」
へえ、と正一が受けて、少し考えてから、「それはいいな」と言った。何がいいの、と聞くと、いざというとき頼りになるじゃないか、と返ってきた。
もしものときには看護師の嫁に頼るつもりなの、と言うと、正一はそういう意味じゃなくて、と一瞬焦った顔になった。
「頼もしくていいじゃないか、ということだ」
言い直した正一に、そうね頼もしいわね、と答えた。
正一はモテた。こんなやりとりをしてると、若い頃やきもきすることも多かったな、と思い出す。人懐こいところがあって、どこか子どもっぽくて、つい甘やかしてしまう。
こんなに時間が経っても、根っこのところは変わっていない。
◇
食後、二人で近所を一時間ほど歩いた。
特に目的地はない。家から川沿いの道を北に向かって、橋を渡って、商店街を抜けて帰ってくる、というのがいつものコースだ。この町に住んで二十六年、店の移り変わりをずっと見てきた。去年まであった鮮魚屋が別の何かになっていたり、新しくできたパン屋が思ったより長く続いていたり。街は少しずつ変わっていく。
以前クリーニング屋だった場所が両隣の土地と合わさって、少し大きな雑貨屋になっていた。
丸みをおびた店名のロゴが、入り口の上、壁で銀色に光っている。
正一が「入ってみるか」と言った。何も買うものないでしょ、とさちが言うと、見るだけ、と正一が答えた。
店の中は少し洒落た小物や、文房具がずらりと並んでいた。
正一が台所用品の棚の前でしばらく立ち止まり、小さな木製のコースターを手に取った。
「拓也たちが帰ってくるし、来客用にこんなのどうだ」
「普段コースターなんて使わないじゃない。何個かあるけど、使ってないのばかりよ」
ん、そうか、と正一は言って、コースターを棚に返した。
少し寂しそうに見えて、つい声をかけた。
「……ね、この前買いたいって言ってた、ワイン開けるやつ。なんだっけ」
「ああ、ソムリエナイフな。うちにあるコルク抜きと違って、開けるときに失敗しないんだ。あれはいいぞ。拓也たちと乾杯用に、一つ買っていこう」
いそいそと正一は料理具のある一角に行って、ソムリエナイフを探し始めた。
量販店にあるものより少し高いのかもしれないけど、今日はいいよ、と思う。
青と黒のマーブル模様が持ち手に入ったソムリエナイフを手に、正一が戻ってきた。
雑貨店のロゴが入った紙袋を手にした正一と、並んで店を出ると、空気が少し冷たかった。
さちはコートのボタンを一つ留めた。拓也の彼女が来るなら部屋の片付けもしないといけない、と言うと、正一はそれなりにしてるよ、と答えたが、一秒の半分くらい間があった。してないでしょ、と言うと、半年に一回くらいは、と正一が笑った。してないじゃない、とさちも少し笑った。
川沿いに出ると、水の匂いがした。欄干に手をついて川面を見た。光がまばらに反射して、ゆらゆら揺れていた。
◇
ぽっくりボタンのことを知ったのは、さちの方が先だった。
パート先の同僚、田中さんが昼休みに話してくれた。押すと苦痛なく死ねる、自然死扱いになる、法的にも問題ない……ネットで出回っている都市伝説で、実際に持っている人がいるらしい、という話だった。こわいね、と田中さんは言い、さちもこわいね、と言った。
その場ではそれで終わった。午後の仕事に戻って、夕方にはすっかり頭から抜けていた。ただ、帰り道のバスの中で窓の外を見ていたら、ふとその話が戻ってきた。
こわい、というより、欲しい、かもしれないと思った。
すぐに使いたい、から来た欲しいではない。ただ、あったらどうするかと考えると、捨てないでいる気がした。お守りみたいに、押し入れの奥にしまっておく気がした。なぜそう思うのか、そのときはうまく説明できなかった。
◇
正一に話したのは、その日の夕食のあとだった。
テーブルの上には、グレープフルーツの載っていた皿とスプーンがまだ残っている。さちが立ち上がって皿とスプーンを台所に運び、正一は湯呑みと急須でお茶を注いだ。台所の換気扇が回っている。魚を焼いた匂いが、まだ少し残っていた。
「お茶、入ったよ」
正一の言葉にさちも腰を降ろし、湯のみに手を伸ばした。熱い湯気とお茶の香りを感じながら、「ねえ、ぽっくりボタンって知ってる?」と言ってみた。
「何それ」
正一は初耳の様子だったので、説明した。押すと苦痛なく死ねる、自然死扱いになる、という触れ込みのボタンで、都市伝説らしいけど実際に持っている人もいるみたいで――正一はお茶を飲みながら聞いて、へえ、と言った。
「どう思う」と聞いた。
「どうって?」と正一が言った。
「こわいとか、ほしいとか……」
「別に……だって、都市伝説なんだろ」
まあ、そうなんだけどね、と言いながら、なんかうまく伝わらない……もどかしくなった。
「田中さんが話していて、聞いてるうちに気になっちゃって」
「田中さんそういう話好きだよなぁ。ちょっと悪趣味じゃないか」
正一は苦笑いだ。
でも、と続けてしまった。
「いざとなれば使えると思ったら気が楽かな、と思って。お守りみたいな感じで」
立って台所に行きながら、正一の顔から目線を外しながらそう言った。間を置かず、お湯を出して食器を洗い始める。
湯のみを手で包んだまま、正一がちらりとこっちに顔を向けていた。
「あのさ。俺が先に死ぬつもりでいるから、そのボタンの話は……これでおしまいってことで」
食器を洗う手が止まった。
「なにそれ……勝手に決めないでよ」
責める感じではなく、笑顔の会話の続きとして、そう言った。
「一般的に統計だと男の方が先に逝くから」
「……そんな社会全体の話じゃなくて」
洗い物を再開した。換気扇の音と水の音が重なった。
「私だって欲しいかもしれない、先に逝きたいかもしれない、とは思わない?」
「なんでさ」
「あなたの後のこと……したくないから」
「財産があるわけでもないし、この家も大した値段じゃない。拓也もしっかりしてるから大丈夫だよ」
「財産とか家の話じゃなくて」
正一がお茶を一口飲んで、まあ、と言った。何が、まあ、なの。
「まあ、うん……さちの言いたいこと、わかってるよ」
二息置いて、続けた。
「俺の方こそ、さちの後に残りたくないよ」
さちは洗い物の手を止めて、正一の方をまっすぐ見た。正一はテーブルの一点を見ながら、湯呑みを両手で包んでいた。換気扇の音だけが続いている。
「それ、さっきと話が逆になってない?」
「そうじゃなくて」
正一もまっすぐさちを見て、すぐに目線を下げた。
「さちに先立たれたくない。それだけだ」と言った。
二十六年で、こういう顔もたくさん見てきた。照れているのを隠している顔だ。
さちは視線を流しに戻して、また洗い物を続けた。
◇
夜、布団に入ってから、さちはまた考えた。
天井は暗くて、何も見えない。隣では正一がもう寝息を立てていた。早い寝つきも、ずっと前から変わらない。安らかな寝息を聞きながら、さちはぽっくりボタンのことを考えた。
正一が先に逝きたい、と言った。
自分も先に逝きたいと思っている。
ということはつまり、お互いに相手を先に逝かせたくない、ということだ。
ということは……どちらも、相手がいなくなったあとの世界に、残りたくないと思っている。
さちは暗い天井に目を向けたまま、くすっと笑った。
欲しいと思った理由が、ようやくはっきりわかった気がした。相手より先に逝くための道具として欲しかったのではない。正一に先立たれたあとのために、手元に置いておきたかったのだ。正一のいない世界に、長くいる気がしない。それが正直な気持ちだった。
正一も、たぶん同じことを考えていた。
だとしたら……。
どちらかが持っていたら、というより、お家に一つ、で十分。
なんだか笑いが込み上げてきた。声を出さないように、布団の中で少し身体を丸めた。
隣の寝息は、変わらずすうすうと続いている。二十六年、正一はいびきもかかず、こうして子どものようにすやすや眠る。
◇
翌朝、コーヒーを二人でテーブルで飲みながら、さちは言った。
外は昨日と同じくよく晴れていた。
「ゆうべ考えたんだけど」と言うと、正一が新聞から目を上げた。
「私がぽっくりボタン欲しいと思ったのって、あなたに先立たれたあとのためだと思う」
正一が新聞を置いた。
「あなたがいなくなったあとに長くいる気がしなくて」
「うん……それは、お互い様だよ。俺だっていやだもの。さちがいなくなったあとなんて」
二人でコーヒーを啜る。
「なんか、おかしいね」
「おかしくはないだろ」
さちが少し笑った。正一も少し笑った。
「で、どう」
と正一が言った。
「そのボタン、本当に欲しいの?」
ちょっとだけいたずらっぽい顔になっている。もう少し、遊ぼう、と誘ってくるお友達。
「欲しいとは思ったけど……」
コーヒーを一口。
「まあ、なくてもいいかな」
「なんで」
「どっちも持ってたら、お互い見張り合ったりしそうじゃない。どっちが持ってても、先には押させないぞって」
正一が少し考えてから、それはしんどそうだな、と笑った。
「結局あっても使えないでしょ」
「使えないな」
「だったらなくてもいっしょじゃない」
「まあいっしょだな」
一人だけになったときのために、お家で一個ほしい、という気持ちもあった。でも、なんだか明るい話題に思えなかったから、口には出さない。
二人してまたコーヒーを飲んだ。窓から朝の光が入って、テーブルの上に細長い影を作っていた。「そもそも都市伝説だから本物かどうかわからないんだろ」
「うん。赤いボタンが、とか、実際に使った人が、とかいろんな噂は見たけど、確証のあるものはないみたい」
「だとしたら最初から何の話もなかったってことだな」
これにて一件落着、みたいな風で正一が言った。
「何の話もなかったわね」とさちが相の手を入れた。
二人で笑って、しばらく黙った。新聞の紙がかすかに揺れた。正一が窓の方を向いて、「今日もいい天気だな」と言った。
「昨日と同じこと言ってる」
「昨日もいい天気だったから」
「そうね」
◇
話はそれで終わったけれど、さちは何か、ちょっといいものが残った気がした。
正一に先立たれたくない。正一もさちに先立たれたくないと言った。二十六年経って、まだ。
べつに驚くことでもないだろう。夫婦なのだから当たり前だ。ただ、当たり前のことを改めて確かめたのは、悪くない。
ぽっくりボタンの話が、そのきっかけになった。死に関係するものが、生きていたいという気持ちの確認になった。瓢箪から駒、とはこんなときに使ってよかったっけ。
◇
昼さがり、近所のスーパーに二人で買い物に出た。
取り決めがあるわけでもないのに、さちが野菜を選んでいると正一が肉や魚を持ってくる、というのが流れで決まっている。精肉コーナーの前を通るとき、今日何にする?、と正一が言った。何にしようか、とさちが答えると、何でもいいよ、と正一が返した。
「あなたが選んできたもので作るから、何でも好きなの持ってきて」
「じゃあこれで」と正一が鶏胸肉のパックを取ってきた。
カゴに入れながら、さちは言った。
「……ねえ、どっちが先でもさ、残った方、その後ちゃんとやっていけると思う?」
正一がしばらく黙った。赤い肉のパックを照らす売り場の蛍光灯が、変わらず明るかった。
「……わからない、でもまあやっていくんじゃないの。さちはどう思う?」
聞かれて、私もわからないけど、でもやっていくと思う、と答えた。
「じゃあいいじゃないか」
「まあ、いいかな」
スーパーの買い物カゴの中身は半分ほど埋まっている。
さちは豆腐のパックを最後にカゴに入れて、二人でレジに向かった。




