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ぽっくりボタン  作者: 瀬川雅峰


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2章 お守り(下)

 五月になって、就職の話が出た。


 出た、というより、母親から言われた。夕食のとき、父親は黙ってテレビを見ていて、母親が「そろそろちゃんと働くことを考えたら」と言った。珍しいことではない。定期的に出てくる話題で、定期的に押尾は「考えてる」と答え、いつもはそれで終わる。

 その日も「考えてる」と答えた。母親は少し間を置いてから「どうせ考えてない」と言った。

「考えてるよ」

「どう考えてるの」

「……フリーランスのまま、もう少し仕事を増やそうかとか」

「それ六年言ってる」

 続ける言葉が出なかった。

 自分の部屋に戻って、ボタンのしまってある机の引き出しに目をやった。先月、木島から受けた仕事をしながら、箱を取り出した夜を思い出す。あれからも何度か取り出して箱を眺めたが、そのたびに元の場所に戻した。


 死にたくはない。

 でも生きていたいわけでもない。


 そのどちらでもない場所に自分はいる、と押尾は思った。生きることの重力も、死への引力も、どちらも自分には等しく弱い。ただ宙に浮いている。浮いているから、六年間、落ちもしなかった。

 高校の同期は結婚しているやつもいるし、子供がいるやつもいる。SNSを開けば誰かの近況が流れてくる。押尾はそのたびに何も感じない自分に、かえって軽く驚いたのだった。羨ましいとか、焦るとか、そういう感情まで、もうどこかへ消えてしまっている。


 ボタンがある、ということは、落ちようと思えばすぐにだって落ちられる、ということだ。

 そう思うと、少しだけ、気が楽になった。



 六月、押尾は転職サイトに登録した。

 理由は自分でもはっきりしない。ただ、ボタンが机の中にあって、いつでも使えると頭の片隅に置いておいたら、就職活動というものが急に怖くなくなった。

 正確には怖くなくなったわけでもない。失敗への恐怖が、相対的に小さくなったのだ。落ちたら落ちたで、ゼロに戻るだけだ。ゼロに戻ったとして、それがどうした。今だってゼロに近い場所にいるじゃないか。

 最悪の場合は、ボタンがある……そう。本物のゼロへの切符だってある。

 そこまで考えて、押尾は少し笑った。本物かどうかもわからないボタンを保険にして就職活動をするというのは、おかしな話だ。ただ、おかしくても、馬鹿馬鹿しくても、ハッタリでも、動けるなら動いていい。

 サイトでいくつかの求人を見た。デザイン関連、広告関連、そのあたりを中心に。気になるものがいくつかあった。「気になる」という感情がまだ自分の中に眠っていた。この気持ちは悪くない、と思った。

 一社、応募してみた。



 書類選考で落ちた。

 通知が来たとき、なんともなかった。職歴の欄がほぼ空白で、スキルの欄も薄い。当然の結果だった。ただ、応募のために自分の経歴を文章にする作業をして、自分がいかに何もしてこなかったかはっきり認識した。

 空白の人生を埋めるには、今から自分のできることをやるしかない。なんとか履歴書の中身を充実させるために自主的な技術を磨くようにし、木島のほか、何人かのツテを頼って仕事を増やしてもらった。

 自分なりの研鑽を文章にしながら、集中して履歴書を書いた。

 別の会社に応募した。また落ちた。三社目も落ちた。


 一ヶ月近く経ったとき、四社目で書類が通り、面接に呼ばれた。

 前夜、押尾は机の前に座って、箱を取り出して中身のボタンを見た。

 うまくいかなくても、ボタンがある。そう思ったら、緊張が半分になった。半分の緊張で、その夜は準備を自分なりに最後までやり切った。



 内定の連絡を受け取ったのは、七月上旬だった。

 社員が十人に満たない、小さなデザイン事務所だった。給料もそれほど高くは望めない。ただ、最初に務めた会社での数年、その後細々とやってきたデザインの仕事を見てくれて、毎月きちんと給料をもらう形に移れるのは嬉しかった。


 もう一度、レールに乗り直す。


 母親に報告すると、珍しく顔がほぐれた。父親はテレビを見たまま「そうか」としか言わなかったが、それが父親なりの喜び方だということはもう知っている。

 自分の部屋に戻って、家具と自分の持ち物をあらためて見回した。長い時間を過ごしたここに、いろんなものが積み重なっている。

 七月から出社するので、まもなくここを出て部屋を借りることになる。荷物をまとめて、捨てるもの、持っていくもの、置いていくもの。区別をつけて仕分けていかなくてはならない。


 あのボタンを、どうするか。

 引き出しを開けて、ボタンを入れていた白い箱を出そうとした。


 ……ない。


 引き出しを全部開けた。ない。周辺の棚も見た。ない。部屋を一通り探したが、どこにも見当たらなかった。

 いつ、どこで、なくしたのか。

 わからなかった。

 気がついたら、なくなっていた。

 押尾はしばらく部屋の真ん中に立って、その事実をのみこんだ。思ったより、何も感じなかった。何も感じない、ということに、少し驚いた。


 なくなった。それだけだ。


 引き出しを閉めて、押尾は採用通知のメールを開いた。来月からの出社に向けて、返信を書かなくてはならない。画面に向かいながら、ボタンのことはもう考えなかった。



 出社して三ヶ月が経った。

 事務所は渋谷から二駅ほど離れた、古いビルの四階にあった。エレベーターのない建物で、毎朝階段を上りながら、くすんだリノリウムの床で革靴が硬い音を立てる。使い込まれた手すりが鈍く光っている。

 階段を上りながら、悪くないと思った。脚が少しずつ強くなっていく気がした。気のせいかもしれない。

 仕事は、想像していたより押尾に向いていた。

 クライアントと直接やりとりして、デザインの意図を言葉にして、修正を重ねて、完成したものを納品する。その一連の流れに、以前の自分では感じられなかった手応えがあった。褒められることも、こっぴどくやり直しを言われることもあった。それはどちらも等しく自分に向けられた反応だった。無視されるより、どちらだってずっとましだ。


 同僚の中に、宮田という女性がいた。

 三つ年下で、押尾と同じくデザイナーだった。入社して最初に席を教えてくれたのが宮田で、勝手がわからない時期に何かと声をかけてくれた。それ以来、昼休みに近くのコンビニへ行くときに声をかけ合うようになった。深い話をするでもない。今日何買うとか、これ食べたことあるとか、その程度の会話だった。


 気になっている、と気づいたのは、十一月の頭のことだった。

 宮田が風邪で二日休んだ。その二日間、昼に一人でコンビニへ行きながら、押尾は自分が何かを欠いた状態にあることを感じた。欠いているというほど大げさではないかもしれない。ただ、いつもと少し違う。それだけのことが、ずっと頭の隅にあった。


 宮田が戻ってきた日、「よくなりましたか」と声をかけた。宮田は「おかげさまで」と言って笑った。それだけの会話だったが、押尾はその日の帰り道、声をかけてよかったと思った。

 自分はそういうことを「よかった」と感じる人間だった。そんな当たり前のことすら、声をかけて、笑顔を見るまで忘れていた。


 十二月に入って、事務所の忘年会があった。小さな、個人経営の居酒屋でやったが、全社員が出席したのに埋まる席は半分。社長が陽気な人で、それでもなごやかで楽しいお酒になった。押尾が隅の方で飲んでいると、宮田が隣に来て「押尾さんって、前は何してたんですか」と聞いた。

 フリーランスで少しやってたんですよ、と答えた。正確ではないが、嘘でもない。

「長かったんですか」

「まあ……六年くらい」

「六年」宮田は少し驚いた顔をした。「大変じゃなかったですか?」

 大変、という言葉が引っかかった。大変ではなかった、というのが正直なところで、それがむしろ問題だったのだが。


「なんとかやってましたよ」

 宮田はそれ以上追わなかった。押尾はそのことに、少し安堵した。

 帰り道、駅まで一人で歩きながら、考えた。誘ってみようか、と思った。思ったとたんに、怖くなった。六年間、人に何かを求めることをほとんどしてこなかった。断られることへの耐性が、そもそも育っていない。


 ただ、その怖さの向こうに何かがある気がした。

 家に帰って、引き出しを開けた。ボタンを探す気はなかった。ただ、開けた。


 もちろん、ボタンはなかった。


 引っ越しでいろいろ荷物を整理して、捨てるものと持ってくるもの、実家に残すものを仕分けしたときも、ボタンは出てこなかった。そのままボタンは一度も見かけないままだ。


 しばらく空の引き出しを見つめた。

 最悪の場合に逃げられるゼロは、もうない。


 でも、今なら動ける気がした。


 翌週、昼のコンビニの帰り道に、宮田に声をかけた。

「今度、飯でも行きませんか」

 宮田は少し間を置いてから「いいですよ」と言った。


 いいですよ、という言葉が、しばらく頭の中でこだました。

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― 新着の感想 ―
死のボタンというと露悪な設定かと構えたら全くそんなことはなく、素敵な話。 死を選択肢に持った時に人は生きる意味を問い直す。それがくだらなくても、小さくても希望があれば生きられる。
彼には必要がなくなった。 そういうことなのでしょうね。
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