2章 お守り(上)
押尾りょうは三十一歳で、無職だった。
無職、というより、正確には「フリーランス」という肩書きがある。グラフィックデザインを多少かじっていたので、知人のツテで散発的に仕事を受けることはある。月に一本か二本、ロゴのデザインとか、簡単なバナー制作とか。収入は月に数万円。実家暮らしで家賃がかからないので、とりあえず生きてはいける。
とりあえず生きてはいける、というのが問題だった。
生きていけてしまうので、何かを変えるきっかけがない。きっかけがないまま、何もしない。何もしないので、何も変わらない。それが六年続いていた。
二十五歳のとき、新卒で入った会社を辞めた。理由は特にない。残業が多いとか、上司がひどいとか、そういう明確な不満があったわけではない。ただある朝、出勤しようとして靴を履きかけたまま、動けなくなった。靴紐をつまんだままの指が思うように動かなかった。そのまま片足を革靴につっこんだまま、玄関で会社に電話して、休んだ。次の日も休んだ。気づいたら一週間経っていて、そのまま辞めた。
辞めたあと、転職活動のようなことをしばらく続けた。求人サイトに登録して、いくつか応募した。二社で最終面接まで行き、二社とも落ちた。そのあと、ぱたりと動きが止まった。止まったまま半年が過ぎた。
デザインの仕事を知人から頼まれたのは、その頃だった。学生時代に趣味でやっていたことが、たまたま役に立った。それ以来、月に一本か二本という状態がずっと続いている。増えもしないし、減りもしない。
三十歳にもなれば、何かが変わるかと思ったが、なぜそんなことを思ったのか、と自問したくなるくらい、何も変わらなかった。誕生日の夜、ケーキを買って帰った母親が「おめでとう」と言い、父親が「もうそんな年か」と言った。押尾は「ありがとう」とだけ言って、ケーキを食べて部屋に戻った。
翌日からも、二十九歳と同じ日々が続いた。
友人の木島から連絡が来たのは、三十一を迎えて三ヶ月。四月の終わりのことだった。
「急ぎで頼みたい仕事があるんだけど、会って話せる?」
木島とは大学時代の友人で、今は都内で小さな会社をやっている。ときどきデザインの仕事を回してくれる、数少ない押尾デザイナーの取引先のひとりでもある。
指定されたカフェに行くと、木島はすでに来ていた。向かいに座ると、軽い世間話もそこそこに、紙袋を差し出してきた。
「これ、もらいもんなんだけど。押尾に見せようと思って」
「何これ」
「開けてみて」
紙袋の中には、小さな箱があった。白い箱で、リボンもかかっていない。開けると、中には白いクッション材があって、内側にもう一重透明プラスチックの箱があった。その中に……押しボタンがひとつ収まっていた。
樹脂製の台座の上に、直径三センチほどの赤いボタン。どこにでもあるような、特徴のないデザイン。それが、やけに丁寧に梱包されていた。
「何、これ」
「ぽっくりボタン」
押尾は顔を上げた。
「聞いたことある?」木島が続ける。
「都市伝説みたいなやつ。押すと苦痛なく死ねる、ってやつ」
「……ネットで、話題になってたやつか」
「そう。俺ももらったんだよ、ある人から。でも俺、奥さんも子供もいるし、使う気は全然ないし、ただ、なんか落ち着かなくてさ。今日、持ってきてみた」
「押すだけで、ぽっくり……ってやつだろ。どうせニセモノなんだろうけど……なんか不気味だな」
「ああ、なんかこれ持ってるとザワザワするっていうかな。自宅に置いとくのもなんか気持ち悪いし……家族が触ったらと思うと心配だしな。なあ押尾、ちょっと興味、湧いてこないか?」
「俺もまだ死ぬ気はないよ」
「わかってるって。でもお前独身だし、なんとなく刺激が芸術に必要なインスピレーションの元になるかもってさ。本音は……もってってくれたらありがたい、なんだけどな」
木島の笑顔がかすかに引きつっているように見えた。
「もってってくれたらありがたい」は大部分で本音らしい。ボタン一つをもつことで、何が起きるのか。普段温厚で、他人に配慮できる木島の珍しい顔を見た気がした。独身のまま、ふらふらと生きている押尾を、体のいい押しつけ先にした、と考えると腹も立ってくるが、そう思われても仕方ない生き方だという自覚もある。
普段世話になってばかりの木島の頼みに応えられる機会なんて、これまでほとんどなかったな、と思った。
「俺が独身だからってなぁ」
意識して、口元に笑みを作った。
「……さすがに失礼だった、よな」
押尾は視線を落として箱に目を向けた。赤いボタンは、おもちゃみたいな外見なのに、禍々しい何かを纏っている何か、であるように目は真剣だ。
押尾がごめん、と言って箱を引っ込める前に、押尾は言った
「興味出てきたよ。これ、本物ってこと、あるかな?」
「いや……わかんないよ。あり得ないとは思うけど、確かめる方法が、俺にはない」
「それを言ったら俺にもないぞ」
二人で少し笑った。
受け取った箱を紙袋にしまい、自分の鞄の隣に置いた。
「要らなかったら捨ててくれよ」木島が言った。
「そうだな」
そのあと、木島の仕事の話を三十分ほど聞いた。新しく立ち上げるサービスのロゴを作ってほしい、予算はこのくらい、スケジュールはこう、と説明は明快だった。断る理由は何もなかったので、引き受けることにした。
帰り道、電車の中で鞄の中の紙袋を意識した。重くはない。ボタン一個の重さしかない。
本物だったら、という仮定を立てようとして、途中でやめた。本物かどうかより先に、自分がそれを使う気があるかどうかというそもそもの問いがあって、その問いに向き合うのが面倒だった。
家に帰って、鞄から紙袋を取り出し、机の引き出しの中にしまった。
◇
木島からもらった仕事は、予想より難航した。
内容を聞いて、方向性のメモを作って、参考になりそうなロゴをいくつか調べて、それからソフトを開いてラフを描き始めるまでに三日かかった。理由は特にない。やろうと思えばその日にできた。ただ、やる気がどこかへ行ってしまって、気がついたら三日経っていた。
四日目の午後、ようやく作業を始めた。
ラフを三案起こしたところで、手が止まった。どれも悪くはないが、決め手に欠ける。どれを出しても「まあいいんじゃないですか」という返事が来て、それで終わる気がした。終わって何が悪いかといえば、別に悪くはない。仕事は終わり、金はもらえる。木島も困らない。
何が悪いんだろう、と押尾は思った。
思ったまま、引き出しを開けた。
白い箱が見えた。中身はあの赤いボタン。
紙の箱を開けて、緩衝材に包まれた内側のプラスチックの箱をそっと取り出した。プラスチックの蓋は上蓋が外れるようになっており、その中に本体のボタンがある。
いたずらに触っていいものじゃない、と理性は告げていた。でも、何のプレッシャーも感じないまま、ボタン本体を手に取った。樹脂の台座はひんやりしていた。それだけのものだった。
プラスチックの感触。見たところ、上のボタンも同様。押せば苦も無く凹みそうだ。造形としては、本当にごく当たり前のもの。
それが手の中にひんやりとある。
本物かどうか確認するには、押すしかない。押して本物なら死に、偽物なら何も起きない。どちらにせよ、今すぐ押す気にはなれない。
ほう、と息をついた。
そっとボタンをプラスチックの箱に戻す。
「押す気にはなれない」ということは、今、自分は死にたくはないということだ。
押尾はもう一度、そのことを確かめるように考え直した。
――自分は今、死にたくはない。
では、生きていて何をしたいのか。
ボタンを机の上に置いて、またラフに向き合った。




