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ぽっくりボタン  作者: 瀬川雅峰


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10章 デスゲーム・リターンズ(Ⅶ・堂島達也)


堂島達也


 二人が押した。何も起きなかった。


 光のボタンは偽物だった。

 剛のボタンも偽物だった。

 リスク管理上、最低でも一人に押させて、偽物の存在を確認しておく必要があった。

 二人が引いた時点で本物が出ていれば理想的だったが、そこは仕方ない。


 残りは四つ。妙子、奥田、遥、そして私自身。本物はその中にある。


 このゲームは、実にくだらない。

 くだらない、というのは私が持つ数少ない言葉にする感情の一つだ。

 計算の外にあるものへの、軽い苛立ちが、ノイズのようにチリチリする。

 不快だ。


 葛城哲の遺言がこういう形を取るとは、想定していなかった。

 想定外のことが起きると、私は少し苛立つ。


 葛城哲の財産は、私の計算では、すでに手中にあるも同然だった。


 十年かけて一つ一つ手を打ってきた。

 息子夫婦を破局させて、葛城哲を孤独にした。

 哲の信頼を得て、事業の一つを任されるまでグループに食い込んだ。二年前にはグループ内でも有数の会社の経営権を握った。

 五年前は、妙子を後妻として送り込んだ。

 妙子を通じて、葛城家の財産に対するアクセスは確保できている。

 哲が死ねば、妙子経由で金は自由に動かせる、はずだった。


 一年前に、遥の割り込みという想定外が起きた。

 結果、哲は自分の死期を早めることになった。これは自業自得といっていい。


 着実に、リスクを排除し、盤面を一つ一つ染めていく。

 それが私の設計したゲームだ。

 設計のとおりに、意図した盤面を形にすることは、心地がいい。


 それなのに、今度はこの遺言が割り込んできた。

 とてもチリチリする。

 

 私が参加しなければ、妙子の取り分が遺留分だけになる。それは設計通りではない。

 だから、このくだらないゲームに付き合っている。


 四つのボタンが残っている。


 妙子のボタン。哲が妙子を憎んでいた可能性はある。あの夜のことを哲が知っていたとすれば、本物のボタンを妙子の前に置いた可能性は十分だ。妙子が席を立つ可能性は低く、周囲の目を気にしてボタンを押す確率も高いが、それはボタン自体のリスクとは関係ない。


 私のボタン。哲が私の真意に気づいていた場合、本物を置く可能性がある。ただ、哲が私の正体を知っていたと考えるのは不自然だ。事業で信頼を蓄積し、二年前からは一社を預かっている今の状態と整合しない。ただ、ニセモノである確信までは持てない。


 奥田のボタン。三十七年間、哲の傍らにいた。彼が私について何を知っていたか、把握はできない。しかし、哲の行動から間接的に察するに、私へ疑念をもち、哲へ伝えていた可能性は低い。問題は、奥田は不可知の領域が多すぎる点にある。三十七年間の哲との関係という長い時間に、こちらから把握できない確執が生まれた可能性も無視できない。


 遥のボタン。哲が最後の一年、最も穏やかな顔を見せていた人間。哲が特別に信頼していた人間であり、遥の哲への信頼もこのゲームで言動から裏付けられた。


 この局面は、最もリスクの低いボタンを選ぶ……その一事だけ優先すればいい。


 最善手ははっきりしている。

 本当にくだらないゲームだった。


 これで当初の設計に戻れる。



 達也が言った。

「白石さん、あなたのボタンと、私のボタンを交換していただけませんか」


「なんだそりゃ」

 剛があきれた声を出した。


 達也が穏やかに、奥田に尋ねた。

「奥田さん、この場の条件に、ボタンの交換を禁じる内容はありませんね?」

 奥田が最初に読み上げた紙を、手元で広げて確認した。

「……はい。そのような条件は……見当たりません」

「記載がないなら、条件に違反していることにはなりません」

 達也はにこやかな顔を遥に向けた。

 遥は達也を見つめ返した。

「交換されたい理由を聞かせてください」

「私には、この場でボタンを押さなければならない理由があるからです。一社を預かる私には、事業の継続、多くの人間の生活がかかっています。あなたは押さない。ならば、そのボタンを私に譲っていただければ、私が押します。残った四つの中で、あなたのボタンが一番リスクが低いと判断しました」


 室内が静まった。


 光が口を開いた。

「待ってください。一番リスクが低い、と言った根拠はなんですか」

「葛城哲さんが白石さんを大切にしていたことは、皆が知っています。白石さんが哲さんをどう考えていたかも、先ほどのやりとりで明確になりました。大切にしている人間に、害を与えるものを渡すはずがありません」


 光は少し考えてから、言った。

「逆じゃないですか。大切にしているからこそ、本物を渡したのかもしれない。白石さんが押さないとわかっていて、本物を託した。そういうロマンチックな考え方もあるんじゃないですか」


 達也は光を見た。

 内心ではもう、光の言葉への興味は無くなっていた。


 大切にしている人間だからこそ本物を渡す?――そんな行動は感傷以外の意味をもたない。

 哲は感情に振回されて行動する人間ではなかった。

「それも一つの考え方ですね」達也は穏やかに流した。

「でも私の結論は違います。白石さんのボタンが最もリスクが低い。だからお願いしています」


 光はそれ以上言わなかった。

 達也は遥に視線を戻した。

「白石さん、いかがでしょうか」


 遥はしばらく達也を見ていた。

 それから、静かに言った。


「わかりました」


 妙子が小さく息を吐いた。光が壁際で腕を組んだ。

 

 箱の交換が、ひっそりと行われた。

 遥が自分の箱を達也の前に置き、達也が自分の箱を遥の前にそっと置いた。

 遥は置かれた箱に手を触れなかった。


 達也は受け取った箱を開けた。


 赤いボタンが入っていた。


 ◇


 くだらない、と達也はまた思って箱を閉じた。


「奥田さん」達也は奥田を見た。

「カウントをお願いできますか。五秒数えていただければ」


 奥田はしばらく達也を見て、静かに頷いた。

「残りの三名、準備はよろしいですか。ボタンを押す意志のある方は箱を開けて、手をボタンの上に。意志のない方は、テーブルから手を下ろしてください」


 妙子が頷いて手を乗せた。奥田自身も、達也も手を乗せた。

 遥は手を膝の上に置いたままだった。


 剛は腕を組んで円卓を見ていた。

 光は壁際に立ったまま、じっとしていた。


「では」

 奥田が言った。

「五」

 妙子が不安そうに周囲を見回した。それでも手はボタンからどけなかった。

「四」

 奥田の手が、微かに震えていた。

「三」

 達也の表情はうっすらとした笑みのままだった。

「二」

 遥は視線をテーブルに向けている。

「一」


 ――


 達也は押した。

 妙子が、奥田が押した。


 遥は手を下ろしたまま――達也を見た。


 一秒


 何も起きなかった。


 二秒


 妙子がヒッと吐息のような悲鳴を上げて、椅子の中で縮こまった。

 奥田が静かに息を吐いた。剛が笑い声を上げかけた。



 達也が、よろけてテーブルに手をついた。


 手が、テーブルの上で滑った。上体が前に傾いた。


「……」


 声にならない何かが、達也の口から漏れた。


「うそだ……」


 達也はそのまま、前のめりに倒れた。

 妙子が悲鳴を上げた。剛が立ち上がった。奥田が達也に駆け寄った。


 遥は動かなかった。

 静かに座ったまま、達也の顔を見ていた。



 室内が騒然としていく。

 剛が達也の肩を揺さぶった。

 奥田が脈を確認した。妙子が何かを叫んでいた。光は壁際に立ったまま、茫然としていた。


 遥はその中で、ただ静かだった。

 しばらくして、遥は顔を上げた。


 目を閉じた。


 ――君は何もしなくていい。ただ、見届けてくれないか


 シャンデリアが、変わらず円卓を照らしていた。

 達也の前の箱が、開いたまま置かれていた。


 赤いボタンが、そこにあった。


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