10章 デスゲーム・リターンズ(Ⅶ・堂島達也)
◇
堂島達也
二人が押した。何も起きなかった。
光のボタンは偽物だった。
剛のボタンも偽物だった。
リスク管理上、最低でも一人に押させて、偽物の存在を確認しておく必要があった。
二人が引いた時点で本物が出ていれば理想的だったが、そこは仕方ない。
残りは四つ。妙子、奥田、遥、そして私自身。本物はその中にある。
このゲームは、実にくだらない。
くだらない、というのは私が持つ数少ない言葉にする感情の一つだ。
計算の外にあるものへの、軽い苛立ちが、ノイズのようにチリチリする。
不快だ。
葛城哲の遺言がこういう形を取るとは、想定していなかった。
想定外のことが起きると、私は少し苛立つ。
葛城哲の財産は、私の計算では、すでに手中にあるも同然だった。
十年かけて一つ一つ手を打ってきた。
息子夫婦を破局させて、葛城哲を孤独にした。
哲の信頼を得て、事業の一つを任されるまでグループに食い込んだ。二年前にはグループ内でも有数の会社の経営権を握った。
五年前は、妙子を後妻として送り込んだ。
妙子を通じて、葛城家の財産に対するアクセスは確保できている。
哲が死ねば、妙子経由で金は自由に動かせる、はずだった。
一年前に、遥の割り込みという想定外が起きた。
結果、哲は自分の死期を早めることになった。これは自業自得といっていい。
着実に、リスクを排除し、盤面を一つ一つ染めていく。
それが私の設計したゲームだ。
設計のとおりに、意図した盤面を形にすることは、心地がいい。
それなのに、今度はこの遺言が割り込んできた。
とてもチリチリする。
私が参加しなければ、妙子の取り分が遺留分だけになる。それは設計通りではない。
だから、このくだらないゲームに付き合っている。
四つのボタンが残っている。
妙子のボタン。哲が妙子を憎んでいた可能性はある。あの夜のことを哲が知っていたとすれば、本物のボタンを妙子の前に置いた可能性は十分だ。妙子が席を立つ可能性は低く、周囲の目を気にしてボタンを押す確率も高いが、それはボタン自体のリスクとは関係ない。
私のボタン。哲が私の真意に気づいていた場合、本物を置く可能性がある。ただ、哲が私の正体を知っていたと考えるのは不自然だ。事業で信頼を蓄積し、二年前からは一社を預かっている今の状態と整合しない。ただ、ニセモノである確信までは持てない。
奥田のボタン。三十七年間、哲の傍らにいた。彼が私について何を知っていたか、把握はできない。しかし、哲の行動から間接的に察するに、私へ疑念をもち、哲へ伝えていた可能性は低い。問題は、奥田は不可知の領域が多すぎる点にある。三十七年間の哲との関係という長い時間に、こちらから把握できない確執が生まれた可能性も無視できない。
遥のボタン。哲が最後の一年、最も穏やかな顔を見せていた人間。哲が特別に信頼していた人間であり、遥の哲への信頼もこのゲームで言動から裏付けられた。
この局面は、最もリスクの低いボタンを選ぶ……その一事だけ優先すればいい。
最善手ははっきりしている。
本当にくだらないゲームだった。
これで当初の設計に戻れる。
◇
達也が言った。
「白石さん、あなたのボタンと、私のボタンを交換していただけませんか」
「なんだそりゃ」
剛があきれた声を出した。
達也が穏やかに、奥田に尋ねた。
「奥田さん、この場の条件に、ボタンの交換を禁じる内容はありませんね?」
奥田が最初に読み上げた紙を、手元で広げて確認した。
「……はい。そのような条件は……見当たりません」
「記載がないなら、条件に違反していることにはなりません」
達也はにこやかな顔を遥に向けた。
遥は達也を見つめ返した。
「交換されたい理由を聞かせてください」
「私には、この場でボタンを押さなければならない理由があるからです。一社を預かる私には、事業の継続、多くの人間の生活がかかっています。あなたは押さない。ならば、そのボタンを私に譲っていただければ、私が押します。残った四つの中で、あなたのボタンが一番リスクが低いと判断しました」
室内が静まった。
光が口を開いた。
「待ってください。一番リスクが低い、と言った根拠はなんですか」
「葛城哲さんが白石さんを大切にしていたことは、皆が知っています。白石さんが哲さんをどう考えていたかも、先ほどのやりとりで明確になりました。大切にしている人間に、害を与えるものを渡すはずがありません」
光は少し考えてから、言った。
「逆じゃないですか。大切にしているからこそ、本物を渡したのかもしれない。白石さんが押さないとわかっていて、本物を託した。そういうロマンチックな考え方もあるんじゃないですか」
達也は光を見た。
内心ではもう、光の言葉への興味は無くなっていた。
大切にしている人間だからこそ本物を渡す?――そんな行動は感傷以外の意味をもたない。
哲は感情に振回されて行動する人間ではなかった。
「それも一つの考え方ですね」達也は穏やかに流した。
「でも私の結論は違います。白石さんのボタンが最もリスクが低い。だからお願いしています」
光はそれ以上言わなかった。
達也は遥に視線を戻した。
「白石さん、いかがでしょうか」
遥はしばらく達也を見ていた。
それから、静かに言った。
「わかりました」
妙子が小さく息を吐いた。光が壁際で腕を組んだ。
箱の交換が、ひっそりと行われた。
遥が自分の箱を達也の前に置き、達也が自分の箱を遥の前にそっと置いた。
遥は置かれた箱に手を触れなかった。
達也は受け取った箱を開けた。
赤いボタンが入っていた。
◇
くだらない、と達也はまた思って箱を閉じた。
「奥田さん」達也は奥田を見た。
「カウントをお願いできますか。五秒数えていただければ」
奥田はしばらく達也を見て、静かに頷いた。
「残りの三名、準備はよろしいですか。ボタンを押す意志のある方は箱を開けて、手をボタンの上に。意志のない方は、テーブルから手を下ろしてください」
妙子が頷いて手を乗せた。奥田自身も、達也も手を乗せた。
遥は手を膝の上に置いたままだった。
剛は腕を組んで円卓を見ていた。
光は壁際に立ったまま、じっとしていた。
「では」
奥田が言った。
「五」
妙子が不安そうに周囲を見回した。それでも手はボタンからどけなかった。
「四」
奥田の手が、微かに震えていた。
「三」
達也の表情はうっすらとした笑みのままだった。
「二」
遥は視線をテーブルに向けている。
「一」
――
達也は押した。
妙子が、奥田が押した。
遥は手を下ろしたまま――達也を見た。
一秒
何も起きなかった。
二秒
妙子がヒッと吐息のような悲鳴を上げて、椅子の中で縮こまった。
奥田が静かに息を吐いた。剛が笑い声を上げかけた。
達也が、よろけてテーブルに手をついた。
手が、テーブルの上で滑った。上体が前に傾いた。
「……」
声にならない何かが、達也の口から漏れた。
「うそだ……」
達也はそのまま、前のめりに倒れた。
妙子が悲鳴を上げた。剛が立ち上がった。奥田が達也に駆け寄った。
遥は動かなかった。
静かに座ったまま、達也の顔を見ていた。
室内が騒然としていく。
剛が達也の肩を揺さぶった。
奥田が脈を確認した。妙子が何かを叫んでいた。光は壁際に立ったまま、茫然としていた。
遥はその中で、ただ静かだった。
しばらくして、遥は顔を上げた。
目を閉じた。
――君は何もしなくていい。ただ、見届けてくれないか
シャンデリアが、変わらず円卓を照らしていた。
達也の前の箱が、開いたまま置かれていた。
赤いボタンが、そこにあった。




