終章 桜、サクヤ
息が少し、白くなった。
駅前のロータリーの端、タクシー乗り場から少し離れた場所にスーツケースと、ギターケースを置いた。中から、マイクスタンドを出して、伸ばしながら位置を決める。すっかり冷えた金属の感触が指先に伝わってきた。
次は愛用の小さなアンプ取り出して、スタンドの前に置く。ギターのシールドを繋ぎ、軽く弦を弾いた。耳でチューニングを合わせる。
十一月の午後6時は、もう本格的に冬の空気だった。
アンプの音量を少しだけ上げた。あんまり音量を上げると、お巡りさんに通報されて、演奏を止められてしまうことになる。それでも、できるだけ多くの人に聴いてほしい気持ちから、少しだけ。
最初の一音を鳴らすと、通り過ぎる人の流れにほんの少し、変化がある。しっかり立ち止まってくれる人はなかなかいない。それでも、少しの間でも足を止めて聴いていってくれる人がいてくれたら、心がふっと軽くなる。聴こうとしてくれる人がいること……歌い続けていることの意味を、そっと認めてもらえた気になるから。
最初に一曲、私たちのバンドのオリジナルをギターソロで歌った。みんなが知っているメジャー曲を一曲挟んで、三月のワンマンライブに向けて作った新曲も歌った。自信をもって聴いてもらえる曲に仕上がった。メジャー曲で足を止めた数人の人が、そのまま聴いてくれた。
チケットを売りたかった。一枚でも多く。
息を弾ませながら三曲目を歌い終えたとき、視界の端に人影が止まったのに気づいた。
若い男性。フリース素材の白っぽいモコモコしたアウター、まだ付けるには少し早そうなニットのの手袋。
周りを流れる人の流れの中で、男性の佇まいだけが妙に静止して見えた。
こちらを見つめて、彼は遠巻きに、聴いていた。
次の曲に入っでも、男性はそのまま聴いてくれた。
三曲歌って、ワンマンライブの宣伝をして、チラシを配って、また三曲……そのまま五十分くらい続けただろうか。すっかり日が落ちて、周囲が真っ暗だった。寒さが一段増してきたのを感じて、ギターを止めた。
ギターケースに小銭をいくらかいただいていた。
もってきたチラシも二十枚くらい受け取ってもらえた。
「聴いていただき、ありがとうございました! これから、物販……チケットとか、CDとか販売します。ぜひ、寄ってもらえたら、嬉しいです!」
手前で聴いてくれていた人が、四人来てくれた。みんなCDを買ってくれたけど、ワンマンライブのチケットを買ってくれた人はいなかった。
お客さんにお礼を言って、ふぅ、と一息ついた。
片付けを始めようとしたら、フリースの男が近づいてきた。
「お姉さんの歌、すごくよかったです」
まだまだ幼い感じの残る、整った顔立ちの若者だった。声は見た目よりずっと落ち着いていた。
「ずっと聴いてくれて、ありがとう。いつもはライブハウスで、バンドで歌ってます」
「……敬語、やめてください。なんか、サクヤさんお姉さんなのに、敬語使われちゃうと、俺すごく偉そうにしてるみたいな感じしちゃうんで」
男性……少年はそう言って、少し笑った。笑うと余計に幼く見えた。
「俺、ユウキっていいます」
「ユウキくんは、高校生かな?」
「くん、は恥ずかしいんで、なくていいです……学校行けてれば、高校生ですね」
「オッケー……よろしくね、ユウキ」
ユウキくんは少し笑って、チケットの束に目をやった。
「ワンマンライブってことは、ずっとサクヤさんの曲、聴けるんですか」
「うん、ワンマンだからね。二時間くらい、たっぷりうちのバンドで演るよ」
「そういうイベントって、あんまりないんですか」
「対バンライブって言って、たくさんのバンドが時間を区切って演奏するのが普段は多いかな。そういうライブだと、持ち時間は三十分くらい。いろんなバンドが聴けるけどね」
普段、ライブハウスに来る習慣がないと、このあたりの事情はわかりにくいなぁと思う。
「俺、お姉さんの曲だけでいい……かな。すごくビビっ!ときました」
「嬉しいなぁ」
「次会えたとき、ワンマンライブのチケット、絶対買いますから」
◇
一週間後、同じ場所で歌っていると、ユウキがまた来た。
遠巻きに立って、最後まで聴いた。
終わると近づいてきた。
「今日は、ちゃんと買い物して、応援します!ワンマンライブのチケットください!」
ユウキがお財布を取り出す勢いに、思わず笑ってしまった。
「ありがとう。こうして一枚ずつ、手渡せるの、すごく嬉しいんだ」
ユウキがニコっとした。
「今日、二曲目の最後、前と違いましたよね」
「コード変えたんだけど、よく気付いたね。新曲だから、ワンマンライブまで、もう少し煮詰められるかなって」
「……こっちの方がいいなって」
よく聴いてくれてる、と思えて嬉しくなった。ドラムの大輝は気付かなかったぞ。
「ライブハウス、来たことある?」
「ないです」
「はい、チラシ。ワンマンまでの対バンライブも、結構やるから……まあ、よかったら」
渡すと、ユウキは丁寧に読んだ。
「ライブハウス、ワンマン以外で行ってもいいですか」
「来てもらうためのチラシだよ」
ユウキくんは少し照れたように笑った。
その顔がまた幼くて、不思議な気持ちになった。飄々としているのに、笑うと子供みたいになる。達観と幼さ、両方が同居してるみたい。
「平日の夜だけど、高校生、大丈夫?」
「大丈夫です」即答した。
「絶対行きます」
絶対、という言葉を、ユウキはよく使う。
◇
また一週間が経ってストリートに立ったら、ユウキが来なかった。
気にするほどのことではない、と思ったけど。
実はちょっと……気にした。
翌週になって、演奏準備していたら、また現れた。
「先週、来なかったね」
「すみません、ちょっと体調悪くて」
「無理しないでいいよ」
「大丈夫です。絶対サクヤさんの歌聴いた方が元気になるんで」
ユウキは少し離れて、いつもの場所に立った。
最後まで聴いて、遠くからにこやかに手を振って去って行った。
◇
初めてユウキと会って1ヶ月半。
対バンライブの夜、初めてライブハウスに来た。
ステージに上がって客席を見渡すと、入り口近くにフリースの白い影があった。ライブハウスの空気に少し戸惑っているように見えた。それでも演奏が始まるまでには、できるだけ前へ来てくれて、慣れない様子で曲に合わせて拳を上げてくれた。今までで一番いい笑顔をしてた。
その夜、いつもより声が出た気がした。
物販でユウキが並んだ。
「ライブハウスでバンド、最っ高でした」
人生で初めてです!と言ってチェキを買ってくれた。
カメラの前で並んで、二人でピースしたとき、ユウキがカメラに目を向けたままで言った。
「サクヤさんにガチ恋しちゃいました。結婚してください」
「ガチ恋は困るなぁ、ユウキくん」
笑いながら、チェキのシャッターを押した。
「あー失恋しちゃいましたぁ……でも、俺が大人になったらあらためて、検討してください。オナシャス」
「私、三十三だよ。ユウキの倍生きてるよ」
私は年齢も隠さず、SNSに載せていたりする。というか、消し時をなくして今に至ってしまった。
「俺、もう十七ですから、ギリギリ倍じゃないです!何年かしたら、倍よりは近くなります」
二人で笑いながら、チェキにサインをして、ユウキに手渡した。
チェキに写ったユウキを見て、隣に並んだときに見えたユウキの首元を思い出した。襟元から覗く首が、肩が酷く薄かった。フリースの下の身体は、ずいぶん細かった。
「高校生だし、お金もかかるし、無理しないでね」
「大丈夫です」ユウキは受け取ったチェキを見ながら言った。
「来られるときは絶対来ますから。来られないときも、来ようと頑張ります」
ふっと笑いながら、妙な言い方だ、と思った。ユウキの言葉はいつも少し予想外だ。返しに困って、気づいたら笑ってる。
◇
バンドを始めたのは、二十歳のときだった。
今年の夏、私は三十三歳になった。
二十代の終わり頃、一度、大きな波が来た。レコード会社からメジャーデビューの打診があって、楽曲を作って、それなりの規模のステージを押さえた。デビューライブの日程も決まった。
その全部が、感染症の流行で消えた。
ライブができなくなった。人が集まれなくなった。
準備してきたものも、全部白紙になった。
感染症が去った頃には、三十を超えていた。ライブハウスの客足は、元のレベルまで戻らなかった。以前なら埋まったライブハウスでも、半分も入らない夜がある。
メンバーは何も言わない。ただ去年の秋、ベースの彩花が「就職活動、少し始めようかと思ってる」と言った。責める気にはなれなかった。
ドラムの大輝は最近、リハーサルやライブの後も、すぐに帰る日が増えた。以前は三人でよくご飯を食べて、そのまま飲みながら語り合ったものだったのに。
もう潮時かもしれない。
全部終わらせてしまえば、楽になるかもしれない。バンドも、ストリートも、歌も……この重さも。そう思う瞬間が、頭にさっと影を差すときがある。
それでも翌朝になると、私はギターを持って出かけた。
なぜ出かけるのか、自分でもうまく説明できない。
◇
また一ヶ月経って、ワンマンまで一月半を切った。
今日の対バンライブは、出演が最後だ。トリを任せてもらったからには、いい演奏をしたい。
深く息を吸って、気持ちを集中させた。
ステージに上がって客席を見渡したら、ユウキを見つけた。
一番後ろだった。
おや、と思った。前回のライブハウスで、最初ユウキは入り口近くに立っていたが、演奏が始まるまでには積極的に前に来ようとしていた。拳を上げて、コーラスを口ずさんで、出来るだけ、近くで歌を浴びたい、一緒に乗りたいと思っているように見えた。
今夜は、後ろの壁際に、静かに立っていた。
どこか、いつもと違う。
その感覚を、頭の隅に一旦置いて、演奏に集中した。
三十分の演奏が終わった。小さな、観客に気付かれないほどのミスはあったが、十分合格点をあげられるパフォーマンスになった。大きなアンコールの拍手を浴びて、もう一度ステージに戻って、一曲追加で歌った。この高揚が堪らなかった。
ステージを降りて、火照った体で物販の準備をしながら、目でユウキを探した。
ライブハウスのフロアに、ユウキはいなかった……さっきは確かにいたはずなのに。
様子も変だった。なんとなく落ち着かなくなって、物販に並んでいたお客さんに「ちょっと待っててね」と声をかけてライブハウスの外に様子を見にいった。
突然サイレンが聞こえた。
救急車だった。ライブハウスのある通りを過ぎて、一つ向こうの交差点の手前に止まった。何人かの人が集まっている。歩道に座り込んだ人間が、救急隊員に囲まれていた。
白いフリース。
「ユウキ……くん?」
ステージ衣装のまま、思わず駆け寄ると、ユウキは地面に座って、救急隊員に何か話していた。
顔が青白かった。
「あ、サクヤさん」
声はいつもと同じだった。飄々としていた。
「ごめんなさい、ちょっと身体よくないんです。ライブ邪魔したくなくて……なんとか、外までは出られたんですけど」
薄く笑った。
「無理しちゃダメだよ。ちゃんと体治さないと」
「ワンマン、絶対聴きに来ますから」
親指を立てて、横顔でいかにも、な笑顔を作りながら、ユウキは救急車に乗せられた。
バタン、とドアを閉めて、走り出す救急車を見つめた。
私はステージに立つ、彼は一人のファン……当たり前のことなのに、連絡先さえ知らないことがすごく不自然に思えた。
渡せるものも、受け取れるものも、何もない。
「絶対来ます」という言葉だけが、私に残った。
◇
それからワンマンまでの一月半、私は全力でチケットを売った。
ストリートで歌った。対バンにも沢山出た。苦手なSNSにもマメに投稿した。
ある夜、SNSの書き込みを確認しながら流していたら、どこかの経営者が突然死したという小さなニュースが目に入った。自然死扱いだったらしい。コメント欄ではまた例の都市伝説が囁かれていたが、私は深く考えないようにした。
ソールドアウトになったのは、ワンマン当日の三日前だった。
メンバーに報告すると、彩花が「すごいすごい」と大喜びだった。大輝はスティックをくるくる回しながら「あとは、最高のヤツを演るだけだなぁ」と笑った。
その夜のリハは、久しぶりに三人の音が揃った気がした。
一番いい夜にする、と思った。
◇
ワンマンの日は、昼からよく晴れた。
受付が始まっても、ユウキは来なかった。開演になっても、来なかった。
ステージに上がりながら、客席の後ろに白いフリースを一度だけ探した。
マイクの前に立った。
満員の熱気があった。最前列の顔が、みんな笑顔でこちらを見てくれていた。
演奏が始まった。ドラムも、ベースも、ギターも最高の仕上がりだった。
音の洪水が絡み合いながら、身体を包んでいく。
技術も、声量も、今日は出し惜しみなしだ。全部ここに刻んでく。
新曲を歌った。感染症が流行る前に作った曲も歌った。バンドを始めた頃の曲も歌った。 喉が震えそうになっても、ねじ伏せた。全部の曲をしっかり届ける。
アンコールの声がいつもより大きく上がってる。
万雷の拍手に包まれて、もう一度ステージに戻った。最後の曲を歌い終えたとき、やっと涙がボロボロ出てきた。
完璧に近い夜だった。
ただ、一番後ろに、白いフリースがなかった。その小さな欠けだけが、この夜にほんの少しだけ雲をかけていた。
◇
物販の時間が終わり、お客さんが少しずつ帰っていった。
バンドのメンバーが片付けを始めた頃、スタッフが声をかけてきた。
「お客さんが来てます。ユウキさんの、お母さんだそうです。入っていただいていいですか?」
◇
小柄な年配の女性が、小さな紙袋を持っていた。
「息子がお世話になりました」
女性は頭を下げた。
「一昨日、息を引き取りました。あの子、最後まで頑張りました」
何も言えなかった。意味がわからない、と思った。
「今回無理なら次まで頑張る、またサクヤさんの歌を聴くんだって、ずっとそう言ってました」
女性は紙袋を差し出した。
「これ、ユウキが大切に持ってました。あなたへ渡すプレゼントだったのではと思いまして。テープは剥がしていません。中身もわからないまま、失礼かとは思いましたが……」
紙袋を手に受け取って、そっと開けると、ワンマンチケットのロゴが見えた。
そしてその下に小さな、見覚えのある箱があった。
箱のまわりには、開かないようにテープがぐるりと貼ってある。
「……ありがとうございます。受け取らせてください」
私が袋を受け取ると、女性は深く頭を下げて帰っていった。
◇
家に帰って、紙袋を開けて、チケットと箱を取り出した。
袋の中には、あの日のチェキも入っていた。
少し皺になって、あの日のユウキが笑っていた。
箱の上のテープをゆっくり剥がして、開けた。
赤いボタンが入っていた。
立ち上がって引き出しを開けた。
自分のボタンの箱を取り出した。
いつ届いたのか、もう正確には覚えていない。全部終わらせてしまおうかと思っていた頃だった。捨てられなくて、引き出しの奥にしまったまま、ずっとそこにあった。
テーブルの上に、二つのボタンを並べた。
ユウキはボタンに負けたくなかった。ライブに来るため、気持ちを強く持つために、チケットをここに入れていた。きっとチケットを見て、チェキを手にして、負けないって頑張ったんだ。
このボタンは、ユウキが押さなかったボタンだ。
押さないために、ここに閉じ込めておいたボタンだ。
二つのボタンを見た。
私も押さない。歌い続ける。
ただ、そう思った。
◇
桜が舞い始めていた。
ストリートで、いつものロータリーの隣で、ギターケースを下ろした。
チューニングする指先の感触に、柔らかな空気を感じた。
最初の一音を鳴らした。
通り過ぎる人の流れが、少し変わった。
白いフリースの影は、どこにもなかった。
私は、歌い始めた。
(ぽっくりボタン 了)




