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ぽっくりボタン  作者: 瀬川雅峰


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10章 デスゲーム・リターンズ(Ⅵ・白石遥)

白石遥


 離婚が成立したのは、二十八歳のときでした。


 結婚は二十五歳のときです。相手は同い年の男性で、穏やかで誠実な人でした。私達は互いを大切にしていたと思います。

 夫のご実家も、温かく私を迎えてくれました。はじめてお目にかかったときに、あけたワインのボトルと、置かれたグラス、ソムリエナイフ……ご両親の満面の笑顔。幸せになろう、と二人で誓ったはずでした。


 ただ、私の身体は子どもを作ることが難しいとわかったとき、夫の誠実さが、ご実家の温かさが、かえって関係を苦しくしました。


 夫は私を、一度も責めませんでした。一度も。実家のご両親も、笑顔のままでした。まるで、心を見せないルールの芝居のように。責められてれば、せめて、そのことを持ち出してくれれば、話もできたかもしれないと思うのです。


 誰も責めない代わりに、少しずつ、少しずつお互いが遠くなっていきました。その誠実さと気遣いの中で、私達、夫婦の関係は静かに、窒息するように終わりました。


 離婚後も、私は看護師として働き続けました。病院を変え、住む町を変え、それでも仕事はやめませんでした。仕事の中だけに、自分の輪郭が残っていました。


 葛城様の訪問看護を始めたのは、二十九歳の秋のことです。


 頑固なところもありましたが、看護しやすいようにこちらを気遣ってくださる、優しい方でした。いつも細かく、こちらの動作を目で追ってくる方でした。

 ただ、ひと月も経つうちに、この方が並外れた観察眼をお持ちだということに気づきました。葛城様は私をよく見ていました。見た上で、何もおっしゃいませんでした。

 その静かさが、心地よかった。


 ある夜、葛城様がそっと言いました。

「……君も、子どもができないそうだな」


 唐突な言葉でした。驚きはしましたが、隠そうとも思いませんでした。

 葛城様には話すことが嫌ではありませんでした。


「はい……」

「俺も、そうだ」葛城様は窓の外を見ながらおっしゃいました。

「息子は、前妻との間の息子は……俺の子ではない」

 私は何も言わず、ただ聞いていました。

「知っているのは、奥田だけだ。あの男は何も言わない。だから話せる」


 子どもを持てない者同士の、静かな共鳴のようなものが、二人の間に生まれていたのだと思います。老いた方と若い私の間にある感情を、愛し合った、と呼んでいいのかわかりません。

 ただ、葛城様の傍らにいることが、私には自然でした。

 葛城様もきっと、同じだったと思っています。


 それ以来、葛城様は私に、少しずつご自身のことを話してくださるようになりました。


 話の内容は、私の想像を超えていました。葛城様が長年かけて積み上げてきた沢山のもの、そしてそれが少しずつ侵食されてきたこと。誰が、どのように、どういう意図で……葛城様の観察は緻密で、冷静で、怒りよりも悲しみに近い表情をされて、語っていました。


「君は何もしなくていい。ただ、見届けてくれないか」

 私にはその言葉の意味が、すぐには理解できませんでした。


 葛城様が亡くなったとき、私は泣きませんでした。

 泣けなかったのではありません。泣く必要がなかったからです。

 葛城様はご自身の終わりを知っておられました。

 その終わりに向けて、準備をしておられました。


 この場に呼ばれたことにも、驚きはありません。



 しばらく沈黙があった後、剛が蒸し返して遥に言った。

「本当に、遺産はいらないのか」

「いりません」

 遥の答えは揺るがない。

「なぜここにいる」

「あの方が最後に用意したこの場を見届けたい。本当に、それだけです」

 誰も返す言葉を持たなかった。


 達也が静かに口を開いた。

「……そろそろ、残りの方々のボタンについて進めましょう。私、妙子さん、奥田さん、白石さん。この四人のボタンが残っています。誰かが先に押す、というのもこれ以上は難しいでしょう。みなさんでタイミングを合わせて、一斉にボタンを押す、という提案をします。もちろん、押したくない人は、押さなくて構いません」


 妙子と奥田が困惑を顔に浮かべた。が、それはほどなく消えた。二人も、膠着を終わらせる有効な手段、として受け入れたからだった。


「私は……妻として、どうせ押すつもりでしたから」

「達也様のその提案で、この場に幕を下ろせるのなら。私も、承諾します」


 達也は「よかった」と笑顔になった。

「承諾いただけたようで、安心しました。しかし、本物は誰に置かれたか、やはり気になります」

 達也は穏やかに続ける。


「私の考えですが、本物のボタンの場所はやはり意図があって決められている……だから……」

 妙子は黙っていた。奥田は円卓の中央を見ていた。

 達也は遥を見て、言った。


「白石さん、私から提案させてください」

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